消費社会

 某番組のネット記事を読んだ。取り上げられていたのは、自死を遂げた芸能人の手紙について。番組にはパートナーが出演しており、そこではただ二、三言ほど、その人への想いを書き綴ったそれが、恋文のようなものとして紹介されていた。

 正気の沙汰ではない。

 どう見てもそれは、愛の告白なんて可愛いものではなく、深淵から聞こえてくる叫びだ。お前らには、紙の裏側からこちらを覗いている死神が見えないのか。その"恋文"は一見、死を匂わせるようなものではないが、だからこそその文字には、切実な思いが、はち切れそうな程に詰まっていた。

 パートナーの方はもうすでに嫌というほど現実に打ちひしがれただろうから、別に、そのパートナーを責め立てたいわけではない。ただ私は、番組と記事に対して、漠然とした苛立ちを覚えた。我々に残された道は、こうやって、人の死すらも消費して生き延びることなのだろうか。
 少し脱線するが、私は時々、ヒィと漏れる呼吸音にしがみつき、命を繋ぐことがある。突発的に闇に呑まれるからだ。この世界の欲望という欲望が浸透しきった言語が渦巻くこの身体を受け入れられず、自分の存在そのものまで信じられなくなるような、人間不信ならぬ存在不信に陥るような、そんな感覚。その間は、唇から漏れ出す息だけが一縷の希望になる。

 人間は、人を思えば思うほど、言葉が紡げなくなる難儀な生き物だ。しかし、これは本当に進化なのだろうか。退化のこと無理やり、進化と呼んでいるだけだったりしないだろうか。そして今、こうやって書き記すことで、番組に関わった人々やそして、もうすでに居ないその人を、乱暴に消費してしまっていることになるのだろうか。

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