人類補完計画?

  一人になりたい。

 ここ数年ずっと、そう願い続けている。どこに対して。何に対して。自分に問い、何かそれらしい言葉を当てはめてみても、どれもしっくりこなかった。もしかすると、人間が生きているこの世界に対してなのかもしれない。これは、お願いだからもう揺らさないで、いつになったら静かになるの、死ぬまで叶わないの、という日々の不満が生み出した、漠然とした願いだった。それほどに、自他の生や死への執着で、自分の存在が揺らされることが苦痛でたまらない。

 以前ネットで「太宰治はリビドー(死の欲望)に負けてしまった」という彼への批評を見かけて、モヤッとしたことがある。そもそも、そういう前例があるから、我々は同じことを繰り返さないようにと学習し、構築された世界で生きている。おそらくその人は、彼岸と此岸の狭間に流れている川を見たことがない。一度、登ってしまうと頭からこびり付いて離れない、頂の景色を知らない。そして、その欲動に抗うことがどれほど難しいことなのか。ほんの少しでも想像が出来れば、そんなセリフは吐けないはずだ。しかしそのときは、全身の毛穴から罵詈雑言が吹き出す前に、その忌々しい気持ちが霧散されたので、モヤッとした、という記憶だけが私の中にはずっと残っていた。
 それはそうと、数週間経ってからやっと消化できるなんて、つくづく、生きるのが下手くそだと実感する。

 人は誰かを模倣する。当たり前だが、前にいる人の表情は、後ろから確認することは出来ない。少なくとも併走していなければ、一瞬でも顔を見ることが出来ない。どんな出で立ちで、どんな声色で、どんな言葉を吐き、どう表情が動くのか。善悪の相まった複雑な存在を感じることが出来て、やっと認識は本領を発揮する。つまり、人格を正しく認知するためには、それなりに時間がかかるということだ。だから、前述した人は、後ろ姿を観察し、前を走る人々が高く積み上げてきた透明な壁の向こうから聞こえてくる言葉や声色だけで判断して、全てを分かったような気になっているだけなのではないか。さらには、後ろの者にそれを伝達して、次第に、本人を押し潰すほどに膨れ上がった虚像が出来上がってしまうという悲劇は、まあよくあることだが、吐き気を催すほど残酷だ。

 私がこんなに弱っている理由は、最初はただ単純に疲れているだけだと思っていたが、恐らく、これは多くの睡眠や休息でどうこうなるものではないようだった。まだまだ出来ることがあると頭で分かってはいても、それをしたところで何なの?という気持ちがなかなか拭えない。改善し続けて、工夫して、何か画期的なものを生み出して、刺激されては癒されて。でも、だからそれで何。どうせまた、同じことを繰り返すでしょ。という冷たい視線が、全方位から睨みつけてくる。そう考えると、疲れたのではなくて飽きたのか?まさか絶望にすら飽きてしまうことがあるなんて。とにかく、その視線を振り払うことも、もう止めてもいいのかもしれないと思い始めている。搾取し合うことでお互いの命を生かすことが命題かのようになりつつあるこの世界を、捨ててしまってはいけないだろうか。
 時には、自分は大人になることが出来なかった未熟者だと憎んだりもした。仮に、それが人に残された最後の手段なのだとしても、認めてしまうのは許されないのが大人という生き物だから。が、今はもう、そんなことすら馬鹿馬鹿しい。
 私はそこに美を見出す。いいじゃないか。たくさん生み出してきたドラマを、全て砂の城でした、と自らの手で上から、ペシャっと水をかけてしまうような、味気なく、呆気ない最後でも。 

 人類補完計画は失敗したんだから。

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