良かれと思って

 良かれと思って、が一番厄介だなあと思う今日この頃です。誰かに認められないと生きられないのだろうか。そんなヤワヤワで、大丈夫なのだろうか。もしかして、万人に認められそうな分かりやすい善行でしか承認欲求を満たすことができないから、善行をしたくて仕方ない人が爆増しているのだろうか。その欲求がどこから発せられ、また植え付けられているのかを精査もせずに、次々と問題を見つけだしてくる天才から発せられる視線の怖いこと。思念が視線を伝って、ヒソカのバンジーガムのようにビーッと一直線にこちらに繋ぎ止められるあの瞬間。私はいつから人間を辞めて免罪符になったのだろう。いい歳して、こんな馬鹿な愚痴を吐いて恥ずかしいよあたしゃ。周囲の人間はもっと困惑しているだろうが、しかし当の私が一番驚いているのだからどうしようもない。話は逸れるが、私は子供の頃から本当にスケベで、それが自分でも不思議でたまらなかった。けどもしかすると、子供ながらに、そういった欲求に塗れたこの世界に対して不信感を抱いていて、嘘くさくて眩しい世界から逃れるために、変態道を走り出したのかもしれない。なんてことを思い出していると、あの鴨長明が琵琶を弾く絵が脳裏に過ぎった。鴨長明っていいな。私は、方丈記ほど孤独で、そして美しいルサンチマンを知らない。だってさ、しんどいじゃん。シンプルに。少しは立ち止まって想像してみてよ。僧侶と聖職者しか存在しない世界に誰が住みたいんだって話です。イマジンオールザピーポーですよ、ほんと。あんまり雑に引用するとバチが当たりそうだ。一応、気休め程度に。南無南無。僧侶だって、こんな軽薄な南無を吐き出すような奴に揶揄されたくないよな。分かってる。分かってるけれど。あーあ。私の免罪符はどこに落ちているのかな。

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