見出し画像

忙しない春に思う

4月が、なんだかとても忙しない。
「新年度」とは言うものの、年度が変わるとともに人員配置が変わるとか、そういうことがほぼない人生を送ってきたので(高校も3年間ずっとクラス替えなしだったことを今思い出した)、そもそもこんなにもいろいろと変化を感じる4月を迎えること自体が初めてかもしれない。というくらい、久しぶりだ。

ここまでの人生の中で、「一貫性」みたいなものが、わたしにはまったくない。やってきたことはバラバラで、もちろん、それらを選んできたわたしなりの理由はあるけれど、あとからとってつけたような理由だったりもするし、なんなら一貫性がある人の方が珍しいでしょ、と開き直っているし、貫いている人に憧れこそあるものの、わたしはどうやってもそうはなれないのだろうなということも、自覚し始めている。きっと、役割が違うのだ。

一貫性がないからこそ、頑固さもない(たぶん…)ので、「まあやってみるか」と思えるし、それでうまくいけば「ラッキー」、失敗しても「まあ仕方ないや、次はやり方を変えてみようっと」などと思える。
一貫性がなくて、いくつかの場所でいくつかの浅い経験をしたからこそ「その場その場でのやり方があるんだなあ」ということも知ることができた。

そんなわたしも斜里で暮らし始めて、もう少しで4年が経つ。
生まれ育った土地で過ごした時間を上回るにはまだまだ先が長い。でもこのままいくと、斜里が2番目の長さになる。そのことに、自分でもいつも驚く。
ほんの少しずつだけど町の中に知っている人も増えて、スーパーやコンビニでばったり会ってこんにちはと挨拶してみたり。最近どうしてるかな、と思ってその店にごはんを食べに行くとか、とりあえず顔を出してみるとか。そういうのは煩わしいと思われがちな時代かもしれないけれど、そんなに悪くないものだな、と思う。

ここ数ヶ月の間でゆっくりゆっくり進めてきたものが、少しずつ、本当〜に少しずつだけど、形になり始めようとしている。
ひとつの場所に長く暮らしながら(わたしにしては長いのです、本当…)こんなふうに時間をかけて作っていく、あるいは誰かが作ってきたものを受け取って育てていく、みたいなことをしてこなかったので、今のこのカチッとおさまる感じは本当に不思議な感覚で、それはいろんな偶然が積み重なっていったから、なのだけど、その中には自分で紡いできた言葉とか行動してみたこととか、そういうものも間違いなくあって、そしてそれに呼応してくれる人がいたからで、本当、出来上がったものはまだ何ひとつも存在しないのだけれど、こうやって自分の中で嚙み砕いていくとけっこうグッとこみ上げてくるものがあるなあ、と書いていて感じたので、きっと夏頃わたしは、泣いてしまうかもしれない。

抽象的、かつ支離滅裂。
でも、そんなふうに自分の中をぐるぐるしている言葉を書き出したい日もある。ということです。
明日もきっとぐるぐるしているだろうな。いっこずつ、やってこ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?