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教育学術新聞 2020年6月24日号 に寄稿 コロナ禍における入学者選抜と新しい信頼関係の構築(下〕

前回、述べたように、コロナ禍において高校での教育が一律ではなく、加えて、生徒の活動歴や成績評価など不本意なまま卒業したり選抜試験を受けたりすることになる懸念が生じており、いかに生徒等を「救済」できるかが焦点だ。

文部科学省はなんらかの指針を早期に示すべきであっただろうが、6月19日に「入学者選抜実施要項」を発表して21年度大学入試の全体像をやっと示すことができた。昨年よりも半月遅れだ。受験生心理を考えれば従来よりも早く発表しても良かったくらいだ。

7月末までに各大学はそれぞれの試験日程や試験科目等の詳細を入学者選抜実施要項として公表することになる。

文部科学省ができること

高校教育の一律が崩れた時に文科省ができることは、この2つだったろう。

1つは「一律を維持して選抜時期を後ろ倒しにする」。もう1つは「一律を崩して選抜(受験)機会を増やす」である。前者は、高校生が不本意にならないように配慮して日程を後ろ倒しすること。後者は、一定程度学び終えたことを要件にして複数回の受験機会を与えることであるが、大学入学共通テストを複数回できるか、大学のカリキュラム編成や選抜の負担が大きくなるのではないかといった懸念がある。このどちらかの対応を取るのではなく、両方の対応が必要ではないだろうかと考える。現に文科省は「入学者選抜実施要項」で総合型選抜の2週間の後ろ倒し、大学入学共通テストの追試験日程を後ろ倒しして受験要件を緩和して受験機会を増やすと両方の対応を示した。また、一般選抜を2月1日以降にする、個別試験の追試験実施などの対応も示している。

「救済」の主体は大学である

受験生「救済」の主体は、受験生を受け入れる主体である大学である。

「入学者選抜実施要項」では合格発表の期限が3月31日となっており、2月1日からの2か月で一般選抜の合格者を決めなければならない。しかも大学入試センターからの共通テストの成績提供は追試験日程が加味されて遅れることは必至だ。それにともなう合格発表、試験日の設定は複雑になる。個別試験の追試験も用意しないといけない。大学は大変である。受験生には受験日程が狭くなり受験機会が不自由になるかもしれない。果たして受験生を「救済」できるだろうか。

大学は当初から日程の後ろ倒しには消極的だったが、「救済」の主体が大学であるから対応は必須である。9月入学問題を検討していた自民党のワーキンググループからも「2週間から1か月の後ろ倒し」を要望する声があった。にも関わらず、大学は高校団体等を含めた協議の場でも最後まで消極的だった。国立大学協会に至っては全国の校長へのアンケート結果で7割が日程の変更を望まないことを理由に後ろ倒しをしないとしたが、「救済」の主体である自覚がないことを露呈させてしまった。「救済」の主体であれば学習の遅れを訴える3割に焦点を当てて議論するべきだったろうに。こうした感性の鈍さが報道を通して受験生に伝わってしまった。国立大学は、未だに「選ぶ側」としてあり、受験生から「選ばれる側」であるとは考えていないのだろう。とても残念な対応だ。

オンライン入試の可能性

コロナ禍においてワクチンや治療法が確立されないままでは学力検査のような「集合型」の試験方式はいつ実施が出来なくなるかもしれない。その対処として考えられるのは「オンライン入試」である。中学受験ではこの可能性が囁かれ始めた。企業の採用試験もオンライン面接がなされるようになった。

しかし、今回の大学入試改革で真っ先に文科省が捨てたのは、オンライン入試との相性がいい、共通試験のCBT(コンピュータ・ベースド・テスティング)化である。いまからではすぐには対応できないだろう。残念だ。

一方で、慶應義塾大学のSFC(湘南藤沢キャンパス。総合政策学部・環境情報学部)では、総合型選抜においてオンラインによる面接を打ち出した。SFCのようなプレゼンテーション型の評価は、この3月に「全国高校生マイプロジェクトアワード」の全国大会が完全オンラインで実施され、その評価者を務めたことで経験したが、受験生の通信環境さえ整えばできないわけではない。むしろ教員などの伴走者の関わり具合を考慮しつつ「個人の成長」をいかに評価できるかである。eポートフォリオはその裏打ちの材料として活用できることを付記しておきたい。

こうした選抜は必ずしも客観的要素だけで成り立っているわけではない。むしろ主観が入っていることに価値があるのである。これはオンライン、オフラインの問題ではない。

果たして客観的評価による選抜の意味するところはどうなのだろうか。

「客観的選抜」が公平であるという虚構

教科などの学力試験は公平だから信頼性が高いと良く言われる。

果たしてそうなのだろうか。例えばセンター試験の数学の2点と日本史の2点は意味合いが違うことは理解できるのではないか。数学は思考の過程における2点であり、日本史は知識としての2点である。あるいは数学で80点を得点することと日本史で80点を得ることが果たして同値なのか。表層的には同値だが、資質能力として本当に同値なのか。数学が得意な受験生は満点である100点以上の評価を得られない。数学の問題が満点をとりやすければこうした受験生を正しく評価できるだろうか。

こうした試験が果たして公平なのだろうか。

公平から公正へ

これまでは「高度な公平性」によって審査する側とされる側の信頼関係を構築してきたが、一律が崩れたいまはその信頼関係も崩れるだろう。その結果、公平でないことが事実として浮かび上がる。例えば、出題者において他科目の試験を意識して出題することはないだろう。その出題科目の中に閉じた得点でしかないのだ。これを「合計点で評価」しているのであって、必ずしも公平に扱われているわけではなく、「合計点で評価」というルールを示すことで公正に扱っているのだ。「高度な公平性」により構築された信頼関係も虚構に過ぎないのだろう。

こうした中で新たな信頼関係を構築する必要がある。

それは「公正」であることに立ち返り構築されるものではないか。

少なくとも「オンライン面接試験」において、第三者の関わりや極度な誇張の有無などを明らかにして「公正」であることを誓約することで、新たな信頼関係が構築されるのではないか。

「主観的選抜」には定員管理の緩和を

大学が主観的に受験生を選抜するためには、アドミッション・ポリシーをいままで以上に明確に、しかも具体的にする必要があるだろう。「求める学生像」が審査する教員間で共有されている必要がある。これまでは学力試験で均質な学力を持った学生を集めることで教育を効率化していた面があるが、「正解がない問い」を解決することが求められる昨今においては、むしろ均質よりも多様な学生を集めてディスカッションしたほうが豊かな授業になる。ある商社が採用において「成績だけでなく採用者全体のバランスをみる」と話していたが、授業も多様な学生がいることで豊かになっていくのだ。こうしたときに、「求める学生像」に合致した者だけを選抜するのだから必ずしも定員を満たさないかもしれない。授業がオンライン化したときに単なる知識の伝達であれば教室定員にこだわる必要はない。いかに少人数でディスカッションができる環境を整備できるかが大事になる。一方で、収容定員の緩和を利用して故意に留年を増やせばたちまちその評判はSNSを席巻するだろうからそうした抑止はできるだろう。

定員という「制約」は選抜試験の「目的」ではない。だとすると文科省が課す「定員管理の厳格化」は緩和されるべきだろう。特に、今回、個別試験の追試験を求めることも併せて考えれば。

教育から社会システムを変える

今回、高校教育が一律ではなくなった。それをピンチと捉えずチャンスとして、教育から社会システムを変える機会としたら良い。前述の定員管理の緩和もそうだが、他にも例えば「単位」や「卒業」は時間数という要件に縛られていることの改善もだ。今回、時間数の要件についても見直しの声がある。時間数よりもラーニングアウトカムを求める声もある。こうしたことから学校システムを多様化する可能性もある。

最上位の目的は「学ぶことの保障とその充実」である。そのことを忘れた議論は体をなさない。

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