消費されたいと願う

 公募への応募を終えて一段落している。というか燃え尽きてしまった。当初20万字以上を2週間程度で書いたが、そこから推敲をはじめた。前に書いた長編「そして獣は天を仰ぐ」で推敲をはじめて導入したのだが、前作は「修正程度」の推敲だったので今回は納得できる限り無限に推敲を重ねようと考えた。

 結果、二年半を推敲に費やした。一つの作品にここまで向き合うのは初めてだったし、初の公募。読む人間は下読みの方だけだろう。でも、それでも良かった。webで書くのは悲しいことに合わない。そのスキルツリーを完全に捨ててしまった。もう一度拾い上げることはできるだろうが、チューニングにかかる時間や自分自身の特性を考えると上手くいかないのは火を見るより明らかだ。

 書き終わってからは暇つぶしに作っておいたプロットを並べ、どれを書こうかの思案を続けていた。「いる」ではなく「いた」なのはそれらを書く気がなくなったからだ。
 別に文章行為を辞めるとかではない。他に楽しいことも別にない。プロットが非常に稚拙に感じたからだ。プロットを書いている時はノリノリだった。絶対に面白い。早く公募作を終わらせて取り掛かりたいと考えていた。しかし全部練り直しだ。

 この状態は声優時代にも感じたことがあるが、一段自分がレベルアップしたのだと思う。レベルアップすることで、プロットのアラや矛盾などに気が付くことができたのだろう。書いてもたいして面白くないものを仕上げるのはつらい。webで「これがワシの小説じゃいッッッッッッ!!!」と思って書いたものが激滑りすると本当に死にたくなる。ちなみに激滑りしたのは「メモリースタックマシンガン」だ。今読むと滑る理由も分かるが、書いた当初は本当に落ち込んだ。

 色々と書いていく中で、自分自身の中で変わったきた物がある。最初は溢れ出る文章への思い、純粋に「書く」という行動を爆裂させて突き進んでいた。しかし、それが通用するのは最初だけだった。もちろん、この思いは最強なので持ち続けることが何より大切なのはわかっている。問題は「それしかない状態」で永くやっていくとつまらない物質が出来上がってしまうのだ。

 書くからには面白いものを書きたい。読んでもらうからには面白いものを書きたい。他人の時間を奪いのはその人の命を奪うに等しいと思っている。これだけは何があっても変えるつもりはない。人間が死ぬその瞬間、自分の文章を読んだ時間が「無駄な時間だった」と思われるのならば本当につらい。だからこそ、作品一つ一つに魂と血と汗と生活を叩き込み、どういう意味でも「納得」していただくことが大切なのだと考えている。

 文章と向き合っていると「何を伝えたい」から「どんな話を書きたい」かに変わって来てしまっていた。それを打ち消すことができたのが今回の公募だったので本当に感謝している。「こんな設定おもいついた」「こんな物語を書きたい」そうはならないようにと思っていたが恐ろしいくらい順当にそうなっていた。ちょっと笑ってしまった。プロットがその群れなのである。
 設定、舞台、場面、人、私はそのそれぞれに特に意味はないと思っている。それら全ては箱であると考えている。では箱に何を詰めるのか?答えは一つ。「気合」だ。気合は全てを内包する宇宙のようなファクター。気合を打ち込む。なぜ俺はこれを書いて、これを読んで欲しいと願うのか?これで何を伝えたいのか?多くの箱に気合をブチ込み、どこの誰に届いてほしいのか?
 これら純なる思いは成長によって包み隠される。命の象徴として生えている自分自身という名の木々が成長し、日差しを遮る葉を広げる。それはそれで良いことだ。しかし、過ごしやすくなり、生きる方法がわかってくると余計なことをはじめてしまう。文章を書いて生きる、それ即ち魂の全力投球。腕が千切れるまで弾を思い切り投げる。それを途中でやめてしまう。変化球などを投げてしまう。この現象は止められない。愚直を愚かと断じ、純粋を白痴となじるまでの道は思っている以上に短い。

 そんな時、自分自身はどうなりたいのかを考える。根本を見つめる。なぜやるのかを考える。それが解決に導いてくれる。自分自身に向き合うのは恐ろしい、そして無意味だ。私は他者が介在しない表現や人生に意味がないと考えているので、他者が出てこない行為「自分に向き合う」ことが苦手だ。それに役者時代にそれを10年以上続けてきて飽きてきている。
 だからそれが必要だった。長編のためにひたすら、死ぬほど向き合った。結果として答えは見つかったのかと言われたらNOである。しかし、キラキラ光る断片と血みどろの骨は発掘することができた。

 私の希望は私の作品が消費されることだ。消費されて消えてしまうことだ。そこまで行くことができればそれを食い止めるため、消費を上回るスピードで創作をやりたい。しくじれば自分が消えてしまうようなリングの上で正々堂々と真正面に表現と向き合いたい。

 この文章は自戒である。己の喉元に突きつける短剣である。消費されるためにもっと書く。それ以上にもっとぶつけないといけない。文章には物理攻撃力がある。それを信じて思い切り投げつける。
 心の奥をごまかして小手先で書きたくない。賢くない自分を見つめ、涙を流して座っている自分に蹴りを入れなければいけない。

 やるべきことは多い。だからこそ幸せを噛み締め、また改めて書きたいと思う。やるぜ。俺はやるぜ。認められない世界には、ほんの少し慣れている。

※この記事は投げ銭です。最近マジでやばく借金生活なので気合で頑張るためにもポンチャックマスター応援するぜな人はヘルプミー!

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