世間の空気。
人生とはつまり山登り。
何の山を登っているのかは曖昧でいい。
ひとつだけ胸の奥深くに揺るがない思いをもつ。
その行動は確実に意味のあるものとなり、
曖昧だった山の解像度があがり続ける。
私はそれを抽象的行動と呼んでいる。
信念ある行動はいつか結びついてくる。
点と点が結ばれ線となり枠をつくり面となるのだ。
同じ志を持つ人が一人、また一人と近くなる。
一方で、そうでない人は自然と遠くなっていく。
ただ、私は私の流れに身を任せているだけ。
何も求めない、何も拒まない。
しかし、現代社会はなかなか許してはくれない。
本来は、普通はこうあるべきだ論だ。
最大の敵は、世間の空気。
この空気は孤立を促し恐怖さえ与える。
出る杭は打たれ続ける。
ここが人生のターニングポイントとなる。
この山を登るか否か。
多くはここで下山の判断をする。
そして、その判断を肯定するかのように、
登る判断をした人を数で否定する。
そして、また一定数が下山の判断をする。
これ以降、このサイクルがはじまる。
つまり、ここからが自分との戦いとなる。
出る杭が打たれる中、出すぎた杭となれるのか。
私は現在、後者としてを判断し続けている。
ここで重要な作業が二つある。
一つ目は、概念の撤廃。
「普通はこうだ」を撤退して疑うこと。
特に数が多いものを疑うこと。
少なきものに目を配ること。
本当にそれは正しいのか自問自答を繰り返す。
さまざまな観点で物事をみること。
それは利己的になってないか、
ちゃんと利他的であるのかを問い続けること。
少なきものの方が利他的であるなら、
そこに科学的根拠があるなら、
胸張って少数を選択できるはずだ。
二つ目は、引き算。
無駄なものを捨てる勇気をもつこと。
人間とは臆病な生き物である。
確実性の高いことにしか手をだせずにいる。
正しさを追求することに思慮深く安心を得やすい。
つまるところ、失敗に対する恐怖心が勝るのだ。
ミスは許されない、そうゆう教育が根底にある。
正しいか、間違いか、二者択一となりやすい。
しかし、細分化が図れるポイントである。
この間には、もう二つあるはず。
正しくはないこと、間違いではないこと。
これらはつまり、よく分からないことだと言える。
このよく分からないことにさえ、
私達は正しさを見いだそうと、日々奮闘している。
私達はなぜか正しさのみに焦点があたりやすい。
しかし、間違いを引き続けることこそが、
正しさを広く制限し、その解像度をあげるのだ。
よく分からないことに、無理矢理に答えを急ぐな。
答えがでたことに、人は議論をしない。
議論されないことは風化へと向かうのだから。
私は来年もこの山を登り続ける。
この一年、多くの人との出会いと別れがあった。
これまでにないくらい志の高い仲間とも出会えた。
この仲間を心の底から大切にしたい。
こんな私を温かく迎え入れてくれたことに、
本当に感謝している。
そして何より私には使命がある。
子ども達のためにやらなければならない。
理不尽な状況から守らなければならない。
救えるはずの命を救わなければならない。
誰一人として取りこぼしてはならない。
もう失ったものの数は数えない。
来年もよろしく!
ありがとう!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?