【五島崇行とは誰か?】4

書店でのアルバイトをはじめてから、大学中心の生活からバイト中心へシフトしていくのはさほど掛からなかったように記憶している。
はじめての接客。
はじめての発注、品出し、返品。
書店業務の全てが新鮮で楽しかった。
当時はPOSシステムが本格的には導入されておらず、売上の際にお客さんから回収するスリップで何がどれだけ売れたかを管理していた。
数値うんぬんよりも、スリップ現物の厚みが感覚的に売れている本として、体で記憶され、追加数量や新刊の指定数量などは担当スタッフの職人のような第六感頼りによって決められる。そんな時代だった。
書店のある程度のルーチンワークはできるレベルには、すぐなっていたが、しかし立場上はまだアルバイト、お店の数字という運営に関わる部分には触らせてもらえなかった。
そこに唯一の物足りなさも感じていたし、よその業界がどういう仕組みになっているのが気になっていた。
時給も決して良くは無かったし、就職したい年齢になっていたので、社員で働けそうな仕事を探し始めるが、何となくその視点は秋葉原に向いていた。

趣味でパソコンは弄っていたし、より高い知識を得たいと思ったからなのか、動機はよく覚えていないが秋葉原で中古のパソコンパーツ買取販売を行う仕事は見つかった。
正社員では無かったものの、アルバイトでも経験を積めば社員になれるというのを面接の時に確認してたし、何より書店よりも時給が良かったので決めた記憶がある。

正直ここでの経験と自信が今の私のベースになっていると言っても過言ではないと思う。
それだけ書店との業界温度差は明らかだったし、会社を発展させるという熱量が書店のものとは全く違っていた。
当時の秋葉原、中古パソコン業界は、自作PC全盛期で秋葉原という街は、今のようにガイドブック片手に気軽に観光するような場所ではなく、文字通りオタクたちが集う街であった。
そんな場所での仕事は中途半端な知識量では仕事にならず、まさに実地で専門的な知識を吸収するには、うってつけの場所でもあった。
自分よりも知識の持った方々との仕事というのは、学びの場所としては最適で、同僚先輩含めて色々教えてもらえたのは本当にありがたかった。
お客さんから教えてもらう機会というのも多かった。
自然とパソコンに関する知識は他店のスタッフと比較しても群を抜くぐらいにトップクラスになっていった。

またこの頃からお店の数字に関する興味も出てきて、というより毎日レジ締めの際には日報を書くのがルーチンであり、当日の売上、買取、月の累積、前年比などが自動で出る仕組みになっていて、当時秋葉原で8店舗、それ以外の地方にも出店をしていたので、全店の売上などがすぐ確認できる環境でもあったので、自然と興味が出るようになった。
この数字を追う作業というのが書店にはなくて、刺激的だったし前年比や他店との比較はゲームをしている感覚に近かった。

秋葉原で働くようになってから2年も過ぎた頃、社員になるチャンスが巡ってくる。
川崎店の店長がリタイア寸前、急遽店舗のマネジメントも含めてできるスタッフが欲しいという事で、秋葉原の各店を巡回しながら働いていた私は社内ではどの店舗でも働ける人という評価だったようで、その役として私に声が掛かった。

私が川崎に着任した際には、件の店長はすでにリタイア、病気療養中との事でほとんど引継ぎらしい引継ぎがなかったと記憶している。
それよりも着任した店舗の状態が、あまりに想像を絶していたので、そっちの記憶しか無い。
あれをお店とはとても呼べない。
倉庫あるいは作業場というような形容が近い。

やるべき事は着任して1ヶ月後に自ずと見えてきた。
その当時の川崎店の構造は販売入口と買取入口が別々になっていて、販売入口は系列店の新品パソコン屋の中に入って、さらに奥に行かないと見つからないし、フロアが区切られてる訳ではないので、同じお店と混同される。
逆に買取入口は道路に面した場所にあり、入口も解放可能なので、お客さんも入りやすい。
また川崎で働くようになり、この地域の持っているポテンシャルの高さにすぐ気が付かされる。と同時に前任の店長がリタイア寸前に追い込まれた理由というのも同様に分かった。

それは圧倒的な買取持ち込み量だ。
工場が多い地域でもあったし、廃品回収業者がよく出入りしている地域でもあったので、名義上個人の持ち込みだが、一人一人の量が尋常ではない。
一人でパソコン10台、液晶モニタ20台なんては日常だ。
前任の店長は実直にそれらを1点ずつチェックをして、厳格に査定をしていたので、それで完全に参ってしまったのだろう。
私が注力すべきはそこだと直感した。
買取、受付、査定の時間を最低限にし、買取センターとなってしまっても構わないぐらいに、とにかく買取のサイクルを上げる。
お客さんの反応はすぐに出た。
「前の店長の時は査定まで1週間以上掛かってたのに、ずいぶん早く払ってくれるようになったね。また持ってくるわ」
案の定である。

また持ち込んでくるお客さんも、秋葉原とは違い、パソコン素人ばかりだ。
こちらから、こういう状態で持ってきてもらえれば査定しやすいとお話してチェックがしやすいように誘導をして、こちらのストレスも減らす。
買い取って商品にさえしてしまえば、売る場所はある。
商品化してすぐに秋葉原に送るという流れが、ほどなく定着し、その頃にはあそこの店ではパソコンのパーツを現金化できるという口コミが、すっかりある種の方々には知れ渡っていた。

半年も経てば川崎店の移転という話が出てきて、買取だけではなく販売にも注力できる体制ができ、ようやくお店と呼べる状態にはなったが、正直川崎店の快進撃はお店の移転からが本領発揮となる。

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