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「私にわからないものは知的で無い。」


今の世の中では、「簡単なことをわかりやすく。難しいこともわかりやすく。」が持て囃されている。
世間は簡易的で安易なものに傾倒し、そのわかりやすさ、手軽さに親しみを覚え消費している。今や道徳心や倫理観さえも簡易化、省略化されてしまった。
そして隆盛する反知性的な態度に後押しされ、難解な知的活動は淘汰され続けている。
それは、「言葉が蔑(ないがし)ろにされている」とも言える。

「本当に賢い人は難しい言葉を使わない。」
という言葉をしばしばTwitterで目にしないだろうか?
漫画にして伝えたり、名言のように伝えたりして、毎回たくさんの共感の言葉を呼び込んでいる。
しかしあの手の言葉は、難解な言葉を理解しようとしない者が、難解な言葉を理解しないで良いと肯定するためのスローガンに過ぎない。すなわち免罪符である。
自分の語彙力が単に乏しいという可能性を無視して、「誰にでもわかる易しい言葉で話す変換力(語彙力)が無い者は賢くない。」と、理解ができないことを他者に責任転嫁しようとしているに過ぎないのである。
この言葉に見られる、「難しいことを易しく話す行為は知的である。」というメッセージに異議はない。しかし、「難しいことを難しいまま扱うことは、知的であるわけではない。」という解釈、もしくは深意に私は賛同しない。

この解釈は「知的」という言葉の定義にも関わってくる。
今の日本社会における「知的」とは、"世間にわかりやすい知的活動"を指す。語彙、理解力の基準を最低レベルに引き下げて話せること、表現できることが「知的」であるとされている。それが他者の知性を信頼、信用しない行為であろうとも。
しかし、彼らにとっては「私に分からないものは知的でない。」のである。
この社会の風潮は反知性的態度のイデオロギーと親和性が高い。そのために彼らは、複雑な物事でも実際は単純である(敵がいる、陰謀があるなど)と、簡易的に扱おうとしてしまう。

私は、これには反時代的な態度を取ろうと思う。
複雑な物事、語彙は複雑なまま扱い、安易に簡易化しようとしない。わかりやすいアフォリズムに流されず、複雑なまま多弁に、誠実に語り続けようというわけである。