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スピリチュアルはジェンダーロールから解放されるため?

とある日の日記からの抜粋です。

私は適応力のあるオープンマインドな性格のせいで、初対面でスピリチュアルを説こうとしてくる人とよく巡り合ってしまう。
特にそれは、オープンマインドな40代以上の女性に多い。初対面で必要以上な明るさ(というよりポジティヴさ)を見せる人にそれは屢々ある。
私に一種の受容力があると見込んでそれを説き始める層は、「今に感謝」「光」「風」「朝」などといった語彙をよく用いる。その言葉が出た途端に私は懐疑的な社交顔になってしまう。危険信号を感知している証拠である。
これは本当に偏見だが、彼らを見ていると自分のコンプレックスを埋めるためのスピリチュアリティではないかと思うことがよくある。知識のなさを誤魔化すため?思考力の浅さから目を背けるため?スピリチュアルを知る前に、己を知るべきではないだろうか。世界の全てを知った気でいる一発逆転の思想を私は好まない。

「感謝」とは逃避の言葉である。感謝をするための批評的な精神がお前らには必要なのだ。
その批評的精神を持たざるが故の、表現者になりきれない自己を嫌悪するため、社会を構成する自覚を忘れるための魔法の言葉として「感謝」をしているのではないか。

しかしもしかすると、彼らにとっても、スピリチュアルとはジェンダーロールから抜けるために必要な過程だったのかもしれない。
40代以上に蔓延る猛毒のジェンダーロールは未だに彼らを蝕み続けている。その呪いに罹患していない極少数の光の存在をのぞいて、みな家父長制的ジェンダーロールの被害者である。自分をその役割から解放するため、失った半身を取り戻すためにスピリチュアルに傾倒する人はいてもおかしくない。罹患した半身を手放して純粋な魂を取り戻ために、メタフィジカルなスピリチュアリティが必要だったと考えれば納得もいく。それゆえ彼らは不気味なくらいポジティヴなのであろう。
とまれ、私はスピリチュアリティを全否定しているわけではない。むしろ好きで人より強い興味すらある。しかし以前からスピリチュアリティがもたらすtoxic positivityを批判している。

世界最大の照明器具である太陽、それがもたらす陽光と葉緑素の恵みはたしかに人に感謝と希望の想いをもたらす。しかし現在地球上では争いは絶えず、大気は汚染され続けている。「今に感謝」している間も、他の人間はそんなこと露知らず人を殺し地球を殺し続けている。
「今に感謝」することの快感はマインドフルネスを一時期熱心に取り組んでいた私にはよくわかる。自分ではコントロールできないことを一旦手放してしまえば目の前の生活で充分満足できていることがわかる。しかし社会問題から目を背けていることに罪悪感は抱かないのか?感謝をする前に、まずは批評的な精神がお前らには必要なのだ。