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或る日の手記


植物園をおとなったのは、ブーゲンビリアとジャカランダに逢わんが為であった。鮮やかな色の華(ブーゲンビリアはほう)を咲かせ、虫のみならず人までも魅了するれらの木は、どちらも初夏に開花を迎えると云う。
桜の持つ淡い色彩は、色覚障害の私には大凡見えない。然るに是れらの華は私の色覚を以てしても鮮明であると信ぜられたのである。
殊に私は、ブーゲンビリアにはかつて植物に対し感ぜられた事の無い眷恋けんれんの想いをだに抱いていた。
繚乱たる純潔な華!──是れがブーゲンビリアに対する私のイメージであった。灼然としてあてはかなるその植物は南国に見られると云う。
知人にその旨を話した折、夢の島熱帯植物園には其れらが植栽せられていると教わった。しかして二日後、マークマンダース展のついでに夢の島を訪ったと謂う経緯である。

眷恋するブーゲンビリアに出逢い、たちまちにして幸福感と高揚感が私を盈たした。
嘗て私はこれ程までに一つの植物を愛でたことが有っただろうか?飛瀑の如く枝垂れる紫の華木は、悉く観察者をして逗留せしめた。芸術作品を観た者が、其の場にからだが膠着せられると謂った体験談を屡々しばしば耳にする。ブーゲンビリアは未だ咲き切らぬ四分咲き程度で在ったが為に、私をして陶酔せしめる事は能わずとも、悦楽せしめるには充分であった。

然し一方で、残酷なる観念もまた想起せられた。
四半世紀、都会より自然を好むと吹聴して生きてきたが、植物園と云う人為的にして虚構的なる自然環境でさえ、なお私の眼球運動は蠕虫ぜんちゅうを見つけんが為に旋転していた!蠕虫のみならず蝿の一匹だに憎まんとせむが余り、植物に対しては慈しみを抱くどころか、あまつさえ、苦手だと感ぜられたのである!
人体より大きな葉を持つ「旅人の木」、即ち扇芭蕉おうぎばしょうなんぞは観察こそしたものの、其の生命力への畏怖も湧き起こり、兎角辟易した。食虫植物は殊更である。
生命、或いは繁殖が為の貪婪どんらんたる慾望!「生きる為に生きる」と云った残酷で単純明快な生存本能は何故かくもグロテスクなのだろうか?

此処で私は、先夜、サイクリング時にも似たような事が起こったことを回想した。夜半に山路を下る最中、闇夜に聳える竹林が眼前に現れた。その余りにもおぞましい姿に私は股慄し、はだあわの生ずるのを覚えた。目視百本余りある竹はまさに十メートルを越え、背後に拡がる丘壟きゅうろうに沿って櫛比しっぴしていた。其れらの亭々ていていたる竹は夜風に枝葉を騒めかせ、此方こなたを幽々たる森に誘うかの如く揺れ動いたのである。

植物の単細胞的思考によるエネルギーは「生きる為にのみ」使用せられ、その愚直な慾望は人間の生命エネルギーを凌駕する。

──植物園にて独り回想した私は、将に自然への畏怖と、蟲への恐怖が沸き起こった。私はブーゲンビリアとジャカランダのみを愛で、植物園を後にした。