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原色オジイ図鑑

Vol.3 ランチタイムの爺

 束の間の昼休みにどのようなランチに行き当たるのかというのは、多くの人々にとって切実な問題だと思う。少なくとも俺にとってはそうだ。何を食べるのかによって午後の仕事へのモチベーションが変わってくる。

 だからと言って昼から豪奢なフルコースを優雅に食べたい、と思っているわけではない。そんなことをすると料理を待っているうちに昼休みが終わってしまって、豪華な食事の割に気分が晴れず、なんだかなぁという後悔を腹に抱えたまま午後の業務を行うことになってしまう。あるいは、どこか貴族か豪族のような気分が芽生えて働く気が全くなくなってしまうかもしれない。満腹のあまり寝てしまうということも起きるだろう。飲食物の質と量、食事時間と休憩のバランス、それが昼休みの肝なのだ。

 昼の蕎麦屋や饂飩屋が混んでいるのは、そういった意味から考えると当然で、注文から提供までの時間が短く単価も安い割に美味しいという性質が、多くの人たちの昼休みにフィットするからなのだと思う。バランスがいい。

 この日も多分に漏れず、昼の饂飩チェーン店は繁盛していた。

 注文の列に並ぶと、俺の前には上下に白のジャージを着た爺さんが並んでいた。爺さんのジャージは上着の袖とパンツのサイドに金色の太い二本線が入っており、白地とはいえ裾や袖口、襟、ラインの下には赤い生地が少し見えるような仕立てになっていて、チンピラとオリンピック日本代表のマリアージュ、みたいな感じだった。爺様はそのジャージの上着を豪快にパンツにインしていた。

 爺さんの割に奇抜な格好だなと思って顔を見ると、作曲家の平尾昌晃を燻製液に三年間浸した、みたいな顔つきと肌艶の爺であった。そして、ややチリチリと元気のない海藻のような頭髪が不自然に明るい黄土色の光を放っていた。

 まじまじと見てはいけない。というのが直感的な印象だったけれども、爺さんは直前の四十代と二十代の母娘へ不自然に接近しており、ところが家族というには衣服やアクセサリーなどに相違点が多く、そういった理由から俺は爺さんを注視ぜずにいられなかった。

 爺さん(以下、ジャー爺)はとてもイライラしていた。

 そのイライラについてはわからないでもない。なぜならば、昼時の混雑時にわざわざ餡かけ饂飩などの「注文から提供まで一定以上の時間を要する饂飩」を頼む客が多かったからで、ジャー爺に身を寄せられている母娘もなんちゃら餡かけ饂飩を注文して、列の渋滞に一役買っていたからだ。

 が、店側が入り口にポスターを貼るなどして推奨しているメニューを食うなというのは理不尽だろう。何を食べるのかは自由だ。そういうわけで、前方に延々と並んでいる人たちに向かって「なんちゃら餡かけ饂飩を頼むのは止せ」などと注意することができない。そんなことをすれば、つまみ出されるのはジャー爺と俺の方だろう。だから、せめて内心で発散させる以外に遣る瀬がないのだ。

 ところがジャー爺は内心と現実の間に打ち立てるべき心の外壁が随分と薄いらしく、そのイライラが少なくとも俺のところまでは漏れ出してきているのだった。ただ、母娘ににじり寄るという行為は怒りというよりもなんらかの変態性を汲み取られる可能性もあり、違う意味で俺は緊張しながら、ジャー爺の無事を祈っていた。

 店員が妙に手間取っていた母娘の餡かけ饂飩の完成に目処がつき、店員はジャー爺に「どうなさいますか?」と尋ねた。

「かけ!なみ!」とジャー爺は元気よく答えた。

「釜揚げうどんですか?」と店員は聞き返した。俺には「かけ!なみ!」と聞こえたけれど、鍋や調理器具の金属音、湯を沸かす音、天ぷらを揚げる音なので聞き取りづらかったのかもしれない。ジャー爺はもう一度、元気な声にイラっとしたエフェクトをかけて「かけ!なみ!」と元気に返したのだった。

 すると、驚いたことに店員は「言っていることの意味がわからない」という表情をしたままフリーズしたのだった。これはまずい。代わりに俺が「かけ饂飩の並ですよ」と店員に伝えようかと思ったところ、ジャー爺は怒りのツマミをMAXが10だとすると8くらいのところまでグイっと捻って、「かけ!なみ!」と怒鳴る一歩手前くらいの声色で再度注文したのだった。周りの客は無反応だった。

 続いて、間髪入れずに店員は俺にも「どうなさいますか?」と尋ね、俺はジャー爺よりも小さな声で「かけ饂飩、小で」と注文した。店員は聞き返すこともなく、饂飩を温め始めたのだった。「声」がもつ性質の不思議を表した場面だったように思う。

 ジャー爺は熱々の饂飩を受け取ると、既に天ぷらやおにぎりのコーナーまで進んでいた母娘に再び近寄っていった。そして、おにぎりをひとつ皿に取ると、レジで支払いをし始めた母娘にへばりつくように詰め、性急に代金を支払い、お釣りを手にする前にレジ脇のネギや天かすのトッピングコーナーに手を伸ばして、母娘と手がクロスするようなかたちで大量のネギを饂飩の丼ぶりに放り込んだのだった。饂飩とネギの比率が等しくなるほどの盛り方だった。

 人間は年老いて運動能力の減退や代謝が鈍るのに合わせて、本人を取り巻く時間が間延びして、端的に言えば時間の流れを穏やかに感じるようになるのではないかと俺は想像していた。というか、それは淡い期待でもあった。小学生の頃に永遠に続くんじゃないかと感じていた夏から冬にかけての時間(二学期とも言う)は、年を重ねるごとに短くなっているように感じる。そういうことに焦る。だが、もしかしたら、自分が還暦を越えた頃には、日向ぼっこのように間延びした平和な時間が訪れるのではないか、そんな老後を夢想していた。

 しかし、ジャー爺を観察する限りでは、それはあり得ないことなのではないかと思う。そのくらいせっかちな爺さんだった。

 その後、ジャー爺は店の奥の席に移動して、饂飩を食べ始めた。俺はトッピングを終えて空席を探したが、混雑した店内にはジャー爺の隣席以外に選択肢はなかった。仕方がないのでジャー爺の隣に座り、午後からの作業に備えてササっと饂飩を啜ったのだった。

 数分で食べ終えて隣を見ると、ジャー爺の麺はまったく減っていなかった。ジャー爺は箸で少量の麺を口に運び、熱々おでんを食べるときのお笑い芸人のような顔をしながら少しだけ啜り、「熱っ」みたいな感じで丼ぶりに麺を戻すという動作を繰り返していた。

 あれほど母娘や店員を急かして注文した饂飩は、グズグズに伸びて行くのであった。

イラスト:コバヤシカナコ