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原色オジイ図鑑

Vol.2 二刀流の爺

「武士は用事のないところへは行かない」という話を聞いたことがある。

 用もないのに街をぷらぷらしていると、「やや! この無礼者」とか言って刀を抜く羽目になったり、「覚悟!」 とか言われて短刀で刺されたり、側溝に足を落として骨折したり、小銭を落としたり、家に居れば踏まないで済む虎の尾を踏んでしまう可能性が高まる。そういった厄災のどんつきには「死」があって、なるほど、武術というのが無駄をそぎ落とすような作りになっているのは、死なないためなのだと納得した。現代よりも「死」が身近にあった時代の、リスク・マネージメントだったのだろう。

 ところが、俺は用もなく散歩するのが大好きだ。後藤家の家系図は燃えたんだか失くしたんだかよく分からないが今はないらしく、自分のご先祖様を確認する術を俺は持っていないのだけれども、少なくとも武士ではなかったのではないかと想像している。多分、農人だろう。

 この日は、当てもなく自転車で遠回りをして、街角の風景を楽しみながら仕事先に向かっていた。

 用事のない場所に出かけることはそれだけで様々なリスクを負っている、というのは武士たちの言う通りなのだけれども、一応、普段から俺としても農人なりの、というか芸人なりの、勘のようなものはビッキビキに働かせている。この路地はヤバい、だとか、こんなに汚い中華料理店が一等地にあるのはよっぽど美味いか世襲しただけの不潔な店なのだけれどもこの場合は後者だろう、だとか、様々な情報を五感で収集して危険を察知している。

 ところが、どうやら俺のリスク回避能力は存外に低く、上手に書いたら売文できるくらいのトラブルにいつも巻き込まれてしまう。

 例えば、那覇の裏路地を彷徨っていたら、明らかに怪しいバイブスを放っているおっさんとも若者とも言えない感じの男に、原動機付自転車で追いかけられたことがあった。時代が時代なら怪しい素浪人が馬に乗って追いかけてきた、みたいな状況だろうか。追剝ぎの類だったかもしれない。先に書いたような例でいえば、クソ不味い炒飯を食べる回数は増え続ける一方だ。

 そういった自分の能力の低さを理解して、冒険心を頼りに通ったことのない裏路地に飛び込むでもなく、小汚い中華料理店で焼飯セットを注文するでもなく、リスクを最小限に抑えながらサイクリングを楽しんでいると、産業道路のような大きな通りを横断することになった。

 通りは四車線くらいある大きな道路だった。タクシーや乗用車だけでなく、大型のトラックもびゃんびゃんに走っていた。

 これは信号待ちに時間がかかるかもしれないな、と思いながら、歩行者用の横断歩道の前で、信号が青に変わるのを待った。三人乗りの自転車に乗って買い物に行く主婦、駅に向かう学生、どちらかのアパートにしけ込むであろう若いカップル、など、様々な人がそれぞれに信号が変わるのを待っていた。

 しばらくすると、産業道路の歩行者信号が点滅して赤に変わり、次いで車用の信号が黄色から右折専用の青い矢印を経て赤に変わった。当然、目の前の歩行者用の信号も青に変わった。

 進行方向に目を向けると、対岸にムツゴロウこと畑正憲と松本清張を足して二で割って、ここらへんで四十年くらい暮らして環境に馴染んだ、みたいな爺さんが杖をついて立っていた。髪型は肩まで伸びた白髪混じりのワンレングスで、陶芸家のような雰囲気があり、燻んだ焦げ茶色の甚平のような和服姿だった。一回り大きなサイズを着ているのか、袖がダブっと七部丈のようになっていた。

 特に気にかけずに横断歩道を自転車で渡り始めると、対岸の爺さんが、突然、何の前触れもなく手に持った杖をビュンビュンと振り回し始めた。吉本新喜劇における間寛平のようでもあったけれど、それよりはしっかりとした足取りでこちらに向かって来る。

 なんか嫌だな、というよりはヤバイな、と俺は思った。よく見ると爺さんは杖を両手に一本ずつ持って、二刀流のような感じで振り回している。そして、憤怒のような念が全身から湧き出している、というような歩き方で、片側の杖を時々俺の方へ向けながら渡ってくるのだ。

 お、恐ろしい。

 避けなければ杖で殴られそうな感じだった。二本の杖を持ち歩いているという特殊性も恐怖を増幅させた。なので、俺はハンドルを右に切って交差点の側へ避け、爺とは適当に距離が開くように意識して渡って行った。近づくにつれて、爺が何か言葉を発していることがわかった。「怒鳴る」というには音量が小さく、「話す」には大き過ぎる声量だった。

「退けぇー!! 退けぇー!!!」

 爺さんは二本の杖を振り回しながら、道路の対岸へと消えていった。

イラスト:コバヤシカナコ