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小説「ノーベル賞を取りなさい」第5話

あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。




 大隈大学新宿キャンパス一号館ビルの中にある、柏田の研究室。その奥にセットされたソファーの中央には総長の上条留美、左隣には秘書の萩原宏治、右隣には学部長の牛坂建蔵が腰を下ろし、テーブルを挟んで座った柏田と向きあっていた。
「どう? この部屋にはもう慣れた?」
 留美の問いかけに
「おかげさまで広くて静かで快適そのものです。ご覧の通り書架はまだスカスカですが、アメリカ時代に使っていた図書やノートなどの類が今週中には運ばれてきます。ノーベル経済学賞獲得への研究態勢は着々と整いつつあります」
 と柏田は答えた。
「本や学術雑誌は好きなだけ買ってね。研究費はたっぷり用意してますから。それと秘書が必要であれば遠慮なく言ってちょうだい。雑用をできるだけ減らせば、論文の執筆もはかどるでしょう」
「ありがとうございます。その際はご相談させていただきます」
「そもそも政経学部の教授たちの研究室は三号館の中なんだけど、あの連中ろくに研究もしないで遊んでばかり。あなたが感化されないよう、特別にこの一号館の部屋を使ってもらうことにしたわけ」
 留美の話に、学部長の牛坂が頭をかいた。
「さて、本題に入りましょうか」
 留美が留美がそう言うと、秘書の萩原がビジネスバッグを開け、取りだした封筒の中から書類を手にしてそれを各自に配った。
「おおよそのタイムスケジュールよ、ノーベル経済学賞を受賞するまでの」      柏田が書類に目を走らせるのを見ながら、留美が言葉を継いだ。
「総長としての私の任期は、あと四年。今年はすでにノーベル賞の選考が進められているから、実質的にはあと三年、つまり三回ね、受賞のチャンスは。私が総長の座を退いたら次に就任する新総長はこんな無謀とも思われる取組みは即刻中止にすることでしょうからね。夢も希望もなくした大学の将来が思いやられるわ」
 それを聞き、牛坂が困惑した表情を見せた。
「あら、口が滑っちゃってごめんなさい。私が学部生だった頃の、古き良き大隈大を思い出しただけ。本題に戻りましょう。一回目のチャンス、すなわち来年十月に受賞者が決まるノーベル経済学賞のレースは、実は今年の九月から早くも始まるの。牛坂さん、説明してあげて」
「あ、はい、はい」
 指名を受け、牛坂が話しはじめた。
「まず、候補者の最初の選定。これはスウェーデン王立科学アカデミーに設置された経済学賞の委員会が、毎年九月に過去のノーベル経済学賞受賞者や権威ある大学教授に受賞候補者の推薦依頼状を送付することから始まります。推薦の締切りは翌年一月末」
 これを受け、留美が口を開いた。
「柏田さんを候補者に推薦していただくのは、ノーベル経済学賞の受賞実績があるアメリカのスピルギッツ博士にお願いするつもりです。博士には二〇〇四年に本学でグローバリゼーションに関する特別講義を行なっていただきましたし、本学の名誉博士号を授与させていただいたというご縁があります。きっとご快諾いただけることでしょう。牛坂さん、続けて」
「あ、はい。こうして集められた三百人の候補者は、王立科学アカデミーにより四月頃をめどに二十人にまで絞られます。これが予備候補者。そして五月には、これら二十人の予備候補者は最終候補者として五人にまで絞られるのです。あとはこの五人の中から、ようやく十月の上旬に最大三人の受賞者が選ばれるというわけですね」
「という狭き門だけど、叩けよさらば開かれん。柏田さん、みごと受賞のあかつきには、スウェーデン国立銀行からの賞金に加えて、本学からも一億円の特別ボーナスを支給します。ぜひとも頑張ってちょうだいね!」
 熱のこもった留美の発言に、柏田は奮いたった。
「おお、俄然やる気になってきた! 画期的な論文をどしどし書いて世界のトップジャーナルに発表し、引用回数をどんどん増やしてみせるぞ! そうだ『アメリカン・エコノミック・レビュー』だ! ジョン・ベイツ・クラーク賞の候補になったときも同誌には論文を発表し引用もされてきたし、過去三十年の研究の実績は、ノーベル経済学賞において候補者の選考の資料になることも確認済みだ! 総長、学部長、それに秘書君、この柏田照夫にどうぞご期待を!」
 顔をほころばせた来客たちとテーブル越しに握手を交わし、立ちあがった三人をドアまで見送った柏田は、急いで部屋の奥まで戻ってきた。そして言った。
「もう出てきてもいいよ」
 すると、それまで三人が座っていたソファーの右端がズズッと前に動き、壁との隙間から花崎由香が這いだしてきた。セミロングの髪とピンクのワンピースが、汚れてクシャクシャになっている。
「はあはあはあ……圧死するかと思った……」
 息も絶え絶えの由香に
「だから言ったでしょ。まだ研究室にきてはいけないって」
 柏田がたしなめると、彼女は泣きそうな声を出した。
「先生……忍びの活動員って哀しい身分ですね……」


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