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小説「ころがる彼女」・第10話

 その後も、弓子のブログ記事は更新が続いた。
 彼女の新作を読むことは大きな楽しみだったが、毎日回文を作り続けるほど頭を使って大丈夫なのか、あまり無理をしないほうがいいのではないかと、邦春は不安な気持ちにもなっていった。

 きょう五月十九日は「セメントの日」です。一八七五(明治八)年のこの日、東京・深川の工場で、日本初となるセメントの製造がスタート。近代国家への、インフラ造りの道が拓かれました。では回文を。

 殖産、支持。
 気勢、活性、石灰石。
 自信作、良し。

 [しょくさん しじ きせい かっせい せっかいせき じしんさく よし]

「殖産」とは「産業を盛んにする」こと。それを支えるセメントの原料「石灰石」を、回文に読みこんでみました。この石灰石に、粘土や石膏を混ぜて焼き、粉末にしたものがセメントです。ところで私の回文もね、頭のなかで、平仮名の粘土をこねくり回して作っている感じなの。まさに、言葉の職人。さすが、でしょ。

 きょう五月二十六日は「東名高速道路全通記念日」です。一九六九(昭和四十四)年のこの日、東名高速道路が全線開通。小牧ICで名神自動車道と接続し、関東・中京・関西を結ぶ日本の大動脈となりました。では回文を。

 出た。
 でかいぜ、開通道路。
 労働追加、成果出たで。

 [でた でかいぜ かいつうどうろ ろうどうついか せいか でたで]

 道路の建設現場で働くたくさんの人たちの努力が、ついに結実。交通利便の向上、物流の発展などを通して、日本の経済成長を支えてきた、まさに「でかい」意義のある全線開通でした。それにしても、私の回文の才能の、なんと、どデカイことよ。

 きょう五月二十八日は「ゴルフ記念日」です。一九二七(昭和二)年のこの日、第一回全日本オープンゴルフ選手権が、横浜の程ヶ谷カントリー倶楽部で開催されたのにちなんで制定されました。では回文を。

 振る、この娘。
 入れ、バンカーへ。
 ダボだ。
 えー、頑張れい、このゴルフ!

 [ふる このこ いれ ばんかーへ(え) だぼだ えー がんばれい このごるふ]
 
「へ」を「え」に変えて、一打罰。「頑張れ」に「い」が付いて、二打罰。ちょうど、ダボの出来ですね。などと謙遜しておいて、実はわざと二打罰の回文を作り、ダボに仕上げてしまっている作意と技術。もう、回文のチャンピオンだな、私は。

 ここへきて回文の解説に、自画自賛的なコメントが加わるようになったことを、邦春は危ぶんでいた。弓子の体調が、BからCへ、上がっているのではないだろうか、と。

 きょう五月三十日は「ゴミゼロの日」です。「ゴ(五)ミ(三)ゼロ(〇)」の語呂合わせから、関東地方知事会が提唱。美化活動や、ゴミの減量・再資源化を促すのが目的です。では回文を。

 再生!
 捨てる、ダメっ!
 空缶、かき集め、足るです。
 為政さ。

 [さいせい すてる だめっ あきかん かきあつめ たるです いせいさ]

「捨てればゴミ、活かせば資源。」というキャッチコピーがありますが、なるほど、上手いことを言うものです。でも、私の回文のほうが、はるかに上手いけどね。凡人の皆さんには分からないでしょうけどね。

 きょう六月四日は「虫の日」です。「む(六)し(四)」の語呂合わせから、昆虫が棲める街づくりのために、漫画家の手塚治虫さんが提唱し、記念日に制定されました。では回文を。

 カブト、トンボ、セミ。
 羽と羽見せ、
 ぽんと飛ぶか。

 [かぶと とんぼ せみ はとはみせ ぽんととぶか]

 とまっている虫を網で捕ろうとしたところ、気づかれ、両の羽で飛んで逃げられちゃったのですね。その間抜けな様子を「ぽんと」という擬態語で表現したのですが、この「ぽんと」の絶妙さ、皆さんには分かるかなー。手塚治虫先生も、天国で激賞してくださっているはずの、こんな傑作をタダで読めるなんて、あなた、幸せ者ですよ。

 きょう六月六日は「楽器の日」です。芸事は六歳の六月六日から始めると上達が早いと昔から言われていることから、全国楽器協会が、この日に制定したそうです。では回文を。

 ドレミを吹くが、
 良い音に、遠いよ。
 楽譜を見れど。

 [どれみをふくが よいおとに とおいよ がくふをみれど]

 リコーダーの稽古に熱心に励んでいる、子供の姿が目に浮かぶでしょ。ところで、どうして「六」という数字が芸事に関係あるのか。それはですね、数を、親指から折って数えていくと、六のときに小指が立つ形になる。これを「子が立つ」と申しまして、習い事の上達に縁起が良いのだそうですよ。 と、無教養な読者の皆さんに、わざわざ教えて差し上げる親切心、われながら涙が溢れそう。大変だな、博学多才って。

 ああ、もう間違いない。弓子の体調は、確実にCの躁状態になってしまっている。双極性障害の本に書いてあったように、気分の高揚や自尊心の肥大といった症状が、文章にむき出しになってしまっている。本には、怒りっぽくなるとの説明もあったが、その通り、読者に対する攻撃まで始まった。ああ、この先、いったい、どうなるのだろう。
 邦春は頭を抱えた。

 季節が梅雨に入っても、弓子の回文には少しの湿りもなかった。天晴れなほどに、天分の豊かさを誇示してみせた。その日が来るまでは。

 きょう六月九日は「ロックの日」です。「ロ(六)ック(九)」の語呂合わせから制定されたんだけど、実は私、この日が来るのを心待ちにしていたのだ。なぜって? 決まっているじゃないですか。ロック界の、第一人者。一九六二年にロンドンで結成されて以来、五十七年を経た今もなお転がり続けている、われらがローリング・ストーンズの回文をご披露できるからさ。アー・ユー・レディ?

 おや! ぎくっ! 見よ!
 キースがズン! 
 音するストオンズが好ーきよ!
 ミック、ぎゃお!

 [おや ぎくっ みよ きーすがずん おとする すとおんずがすーきよ みっく ぎゃお]

 ミック・ジャガー、七十五歳。キース・リチャーズ、同じく七十五歳。チャーリー・ワッツ、なんと七十八歳(※注)。ロン・ウッド、いちばん若い彼でも、七十二歳。日本の老人たちなら盆栽いじりでもしていそうなこの歳で、ただいま全米ライブツアーを敢行中。いくつになっても、いささかの衰えも見せないバイタリティーには、誰も敵わないね。転石苔むさずとは、まさに彼らのことだよ。私もゆくゆくは、こんな、かっけージイさんになりてーな。いや、バアさんか。とにもかくにも、ミックがロックで、キースがロールなのさ。イッツ・オンリー・ロックン・ロール!

 ああ、言葉が乱れている。回文が壊れている。弓子の心が暴れている。これは、もう、完全なCだ。スマホの画面から目を逸らした邦春は、以前に弓子が言ったことを思い出していた。
 会社に勤め始めたばかりのとき、上司に薦められ、ローリング・ストーンズの曲を聴いたところ、たちまち魅了された。二十代は、彼らの音楽に夢中で、初の来日公演にも行った。そのストーンズの曲を、近ごろまた聴き始めた。彼女は、そう話していた。それが、こういう形で発現してくるとは……。


(※注)ドラムのチャーリー・ワッツは、2021年8月24日に80歳で亡くなった。他のメンバーの現在の年齢は、ミック・ジャガーとキース・リチャーズが80歳、ロン・ウッドが76歳。


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