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将棋小説「三と三」・第32話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 将棋大成会本部から、編集局長に返事がきた。
 その内容は、
「五番勝負をお受けする。ただし升田七段の希望する全局平手での対局は認められない。まず半香の手合いで始め、その結果によって後の対局について決めたい」
 というものだった。
 それに対し、編集局長はこう返した。
「大成会自らが定めた順位戦制度に見られるように、対局はすべて平手で行なうというのが、今や将棋界の常識だ。五番勝負は、全局平手でお願いしたい」
 すると大成会は、こう主張した。
「名人は特別扱いである。半香の条件が飲めないのであれば、勝負はお断りする」
 半香とは、二局を一組とし、一局を香落ち、もう一局を平手で指す手合いのことを言う。あくまでも名人の面子にこだわる大成会の主張について編集局長から連絡を受けた幸三は、
「分かりました。私が勝ち続ければいいだけの話ですから、香落ちから始めましょう」
 と答え、五番勝負の実施が決定した。

 順位戦の九月からの対局を三連勝し、八勝一敗と勝ち星を伸ばした幸三は、その勢いのまま兵庫県へ向かった。木村との五番勝負の第一局が、九月十七、十八日の二日をかけて、宝塚市内で行なわれるのだ。
 十六日の夜。対局場の「さくら旅館」で相まみえた両者は、持ち時間をいくらにするか話し合うことになった。
 先に口を開いたのは幸三だった。
「名人。二日制の対局ですから、持ち時間は十時間くらいが適当でしょうか?」
 すると木村は、こう答えた。
「君しだいだよ」
「と、言いますと?」
「君の好きなようにしてあげると言うことだ。順位戦の通り七時間でもいいし、何なら徹夜して一日指し切りでも構わない。持ち時間は、君しだいだ」
「徹夜で指し切りも結構ですが、新聞社の都合もあります。七時間と十時間の中を取って九時間にしましょうか」
「君がそうしたいのなら、そうしよう」
 続いて、使用する対局室や将棋盤、駒の検分に移った。盤も駒も素晴らしいものだったが、ここ数日の長雨で、部屋の近くを流れる武庫川の水量が増し、水音が高い。
 幸三は言った。
「名人。川の音が耳障りのようでしたら、部屋を変えましょうか」
 すると
「君しだいだよ」
 と、また木村が答えたので、
「私なら平気です。戦争で、どんな轟音にも慣れっこだ」
 幸三はそう言い返してやった。
 まだ前夜だというのに、二人の戦いは、すでに始まっていたのである。

 翌十七日午前九時、記録係の灘照一三段が対局の開始を告げた。
「それでは、上手、木村名人の先番で始めてください。持ち時間は各九時間。それを使い切りますと、一手六十秒未満で指していただきます。では、よろしくお願いいたします」
 礼を交わしたのち、木村、ビシッと3四歩、角の道を開けた。続いて幸三、バシッと2六歩、飛車先の歩を突いた。
 指し手は進み、木村は四間飛車に構え、玉を美濃囲いに固めた。対して幸三は、早目に3六歩と突いて木村得意の「3四銀」型を阻止し、玉を舟囲いに収めた。
 七年前に行なわれた関西社交クラブ将棋連合会主催の香落戦では5五角から3七角の新戦法で木村を破った幸三だが、この対局では趣向を変えた。右の銀を4八から3七、2六へと繰り出す「棒銀」の速攻に出たのである。
 四間飛車に対して棒銀というのは、この当時、誰も指したことのない手法だった。この対戦に備えて、幸三があらかじめ用意してきた、新手だったのだ。
「また新戦法かね。味を占めて」
 皮肉たっぷりの口調で、木村が言った。
「古狸を懲らしめるには、新戦法が一番だと思いましてね」
 平然と、幸三が言い返した。
 木村はジロっと幸三の顔を睨みつけたが、やがて視線を盤面に戻し、長考に沈んだ。そうして午後六時、手を封じた。
 「手を封じる」とは、一日目の対局を終える際に、次の一手を用紙に記入し、厳封をして保管することである。その手を「封じ手」と言い、二日目の対局再開のときに開封して着手する。両対局者への公正を期することがその目的である。
 
 二日目の午前九時。対局が再開された。
 木村の封じ手は、1二飛だった。幸三からの1五歩、同じく歩、同じく銀という端攻めに備えたものだが、てっきり4一飛と飛車を引いて待つ手を予想していた幸三にとって、この手はありがたかった。飛車をさばかれる恐れがなくなったので、3筋からの攻撃がしやすくなったからである。そこで、3五歩と突いていった。
 これに対し、木村は4二角と相手の攻撃目標の角を引き、幸三は3八飛と攻めに圧力を加えた。
 その後、木村は5四歩、6四角から1九角成、幸三は3四歩、3三歩成から3三飛成と、互いに敵陣に大駒を成りこませた。木村が相手の桂馬と香車を奪い取ったのに対して、幸三は桂馬を獲得し、銀を成りこませた。
 駒割としては木村の香車得だが、幸三は自分の成銀と相手の飛車をいつでも交換できる権利を握った。明らかに優勢である。
 木村、敵陣にいる馬を4七、4六から6四と自陣に引きつけて、徹底抗戦の構えを見せたが、幸三の指した次の手に
「あっ」
 と、小さく叫んだ。
 その手は9七角。自陣で遊んでいる俺の角と、全局を引き締めているお前の馬を交換せよと、幸三が迫ったのである。
 この手に対して、木村は馬を逃げるわけにはいかない。なぜならその瞬間、幸三の9七角の利きが4二にいる木村の飛車を直射し、4二成銀、同じく金、同じく角成と、木村陣を滅茶滅茶に破壊してしまうからだ。
 木村の顔から、みるみる血の気が引いていった。それは明らかに戦意の喪失を物語っていた。
 やむを得ず、9七同じく馬と交換に応じ、再度6四の桝目に角を打ったが、これに対しても幸三は8六角と打ち、再び角交換を迫った。木村は、これも応じるしかないので8六同じく角、同じく歩と進み、幸三の歩を労せずして前進させる結果となった。
 木村、またも6四に角を打った。もう、他に指す手がないのだ。
幸三、その角どこかに行けと、6六歩突き。木村、なけなしの手駒の中から香車を摘まんで5一の桝目に打つ。ただ自陣を守っただけのその手には目もくれず、幸三、早くどこかに行かんかいと角取りに6五歩と突き出す。仕方なく木村、角を3七の桝目へ成りこませたが、とうとう自陣の守り駒が足りなくなった。
 ここへきて幸三、それでは寄せてあげましょうかねと、2一飛。1一にいる竜と連携する「鬼より怖い二丁飛車」だ。木村、その後の数手は、ただ指してみただけ。あっという間に止めを刺されて、投了した。九十手という短手数。幸三の完勝だった。


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