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小説「ころがる彼女」・第19話

 点滴を打ってから数日の間は、ベスは食欲を取り戻したように見えた。
 ところが、五日目あたりからまた食事を残すようになり、トイレの褒美である、大好きなササミ巻きおイモにも興味を示さなくなった。家族になって十六年、こんなことは初めてだ。
「ベス。また先生に診てもらおうね」
 そう言うと邦春は、愛犬にリードをつけ、抱きかかえて車に乗せた。血液検査の結果がどうだったのか、早く知りたかった。
 受付を済ませ、待合室へ向かう視線の先に、またあの患者たちの姿があった。子犬のコーギーと、黒縁の眼鏡をかけた、体格のいい飼い主だ。
「こんにちは」
 挨拶をすると、椅子に並んで座り、
「ちくわちゃん、きょうはどうしたの? またお散歩中に、熱中症になっちゃったのかな?」
 と邦春が訊くと、子犬は口を開け、舌を出し、ハアハア息を吐いている。「実は、そうなのです」
 と、飼い主が答えた。
「できるだけ真夏の散歩は控えるように、暑さが和らぐまで待つようにと、先週お医者さまに言われたばかりなのですが。この子ったら、お外で遊ぶのが大好きで。やはり、牧畜犬の血が騒ぐのでしょうね、コーギーは。それで、朝の涼しい時間にだけと思って連れ出したところ、戸外はどんどん暑くなり、帰ってきたら、ちくわはもうぐったりです。そこでまた、点滴を打っていただいたという次第なのです」
 そう話すと彼は、邦春にじっと抱かれている老犬を見て
「ベスちゃんは、やはり、夏バテですか? 可哀想に」
 と、言い添えた。
「ごはんを残すようになったんです。こないだ胃腸薬と栄養剤の点滴を打ってもらったのに、ここ数日、また食べなくなっちゃって。これから引っ越しをしなくてはならないのに、こんな体調で、大丈夫だろうか。長時間の移動に、果たして耐えられるのだろうか。とても心配で……」
 邦春はそう応じた。
 すると、黒縁眼鏡の飼い主は、コーギーを椅子の上に置き、立ち上がった。そして、ウエストポーチのなかから小さなケースを取り出し、そこから太い指で名刺を一枚抜いて、邦春に差し出した。
 それを受け取り、見ると、
 
 便利屋チューマル
 宙丸忠男
 〇一二〇‐△△△‐□□□
 どんなことでもお気軽にご相談ください

 と書いてあった。
「便利屋さん……」
 邦春がつぶやくと、
「ええ。便利屋のチューマルと申します。何かお困りごとのあるときは、私と、数多くのパートナーたちが、きっとお役に立って見せます。ぜひ、お気軽にお電話をくださいね」
 そう言い、会釈をすると、コーギーを抱いて、宙丸は会計をしに去っていった。
「清水ベスちゃん、第一診察室へお入りください」
 看護師に声をかけられて入室し、邦春はベスを診察台に乗せた。
「体重は十・五キロ。前回よりも〇・五キロ減ってますね」
 獣医師はそう言い、
「また、ごはんが食べられなくなったんだね。食べたいのに食べられないのって、ほんとうにつらいんだよねー」
 柔和な眼差しと優しい声を、ベスに向けた。
 しかし、邦春のほうへ振り向いた彼の顔からは笑みが消え、その険しい表情から、厳しい現実が告げられるのを、彼は覚悟した。
 カルテファイルから取り出した血液検査シートを邦春に見せながら、獣医師は語った。
「ベスちゃんは、肝臓と腎臓の機能が、ひどく衰えています」
「肝臓と腎臓が……。そ、それは悪い病気なのでしょうか?」
「おそらくは。けれど、精密検査を行ない、病根を突きとめることがベスちゃんにとって良いことなのかどうか、それは主治医である私にも判断できません」
「と、言いますと……?」
「検査の結果、たとえ何らかの手術が必要になったとしても、それに耐えられる体力を老齢のベスちゃんに求めるのは、とても酷なことだからです。「…………」
「まもなく十六歳と三か月を迎えるベスちゃんは、犬の平均寿命を優に超えて、ごく自然に長生きをしてきました。それならば、これからの日々もまた運命にゆだねるというのも、ベスちゃんの余生のための、ひとつの考え方であると、私は思います」
「せ、先生……」
 邦春は口を開いた。
「ベスの余生を運命にゆだねるというのは、これからも点滴を続けて、食事ができるようにする、ということですよね?」
 獣医師は、頷いた。
「そうして、また食べられなくなったら、また点滴をする。さらにまた食べられなくなったら、また点滴をする。それを繰り返していくうちに、ベスの体はどんどん衰弱していく。運命にゆだねるというのは、そういうことなんでしょう?」
 邦春の邦春の問いかけに、獣医師は首を縦にも横にも降らなかった。しばらく沈黙したのち、彼はこう言った。
「点滴を続けましょう。そして、ベスちゃんの生命力を信じましょう。清水さん。これからも、できるかぎり、ベスちゃんの傍にいてあげるようにしてください」
 処置室でベスが点滴を受けている間、待合室に取り残された邦春は、スマホを手にすると、メールを打ち始めた。
「ベスの余命が短くなってきました。なので、住まい探しを急いでくれませんか。移動距離をなるべく短くしてベスの体にかかる負担を減らすために、近場の物件を希望します。マンションの場合は、必ず「ペット可」であることを確認してください」
 そう打ち終えると、邦春は弓子のメールアドレスに送信した。


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