見出し画像

将棋小説「三と三」・第26話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 黒々とした夜の海が、まるで重油を流したかのようにねっとりと船を取りまき、小さくうねっている。
 昭和十九年一月。連隊の第二大隊を乗せた輸送船は、瀬戸内海を西へ進んでいた。
 舷側にもたれた升田上等兵は、周囲を見渡しながら、その静けさを不思議に思った。この海は、太平洋につながっている。そこでは殺し合いが日々繰り広げられているのに、目の前の静寂はいったい何なのだろう。これから最前線のウェーク島へ向かうというのに、それが実感として、少しも湧いてこないのだ。
 応召後は、広島の山中にある平五郎原という陸海軍共同の演習場で、実戦用の特別訓練を受けた。十二月二十三日に第一大隊が先発したのち、年が明けてから第二大隊は宇品港へ出た。そして、今日一月十五日、この赤城丸に乗りこんで出港。瀬戸内海から豊後水道経由で太平洋を目指していた。
 以前は民間の貨物船だったこの船は、二年前に海軍に徴用されたのち、艤装工事を受け、特設巡洋艦として輸送任務に就いていた。巡洋艦といえば勇ましいが、実体は輸送船をそれらしく見せただけで、一門の大砲も持ってはいない。いざというときは、両舷を護衛する二隻の駆逐艦、初月と涼月だけが頼りだった。
 幸三と並んで海を眺めていた一等兵が、ポケットから煙草を取り出し、くわえ、マッチを取り出したそのとき、走り寄ってきた軍曹に殴り倒された。
「バカったれ! 煙草の火が敵の潜水艦に見つかったらどうするつもりじゃ!」
 軍曹の言った通り、太平洋はもはや制海権も制空権もアメリカの手に落ち、多くの潜水艦が日本の近海や内海に出没しているという噂だった。
 幸三はその場から離れ、船内に戻り、船室の毛布にくるまった。そうして、小さな青い箱を取り出した。
 リンドウの色をした、オルゴール。そのハンドルを摘まんで回すと、あの旋律が聞こえてきた。
 カチューシャの唄。
 今回の出動で、もう生きて日本に帰れないことを、幸三はすでに覚悟していた。あれほど想いを寄せた若子とも、二度と会うことはできない。
 それならば、彼女の思い出の詰まったオルゴールといっしょに、死んでいきたい。それが幸三の、せめてもの願いだった。
 
 翌朝。快晴の豊後水道を、艦隊は南下していた。
 豊予海峡を抜ける頃になると、大勢の兵たちが甲板に出てきて、右舷の彼方に連なる大分県南部のリアス式海岸と、それらが形づくる美しい風景を眺めていた。
 臼杵湾、津久見湾、そして佐伯湾を過ぎ、高知県の沖合に差しかかったそのときだった、どこからともなく魚雷が発射され、駆逐艦の涼月に命中したのは。
 耳をつんざく大音響とともに、涼月は艦首と艦尾を切断された。割れながらも、海に浮いたまま、艦体をぶるぶる震わせている。
 それを見ている兵たちもまた、体を震わせ始めた。目前の光景が現実のものであることを、なかなか理解できないまま、延々と震え続けた。
 ああ、これが戦争というものなのか。今まさにそれを知り、例えようのない恐怖が、幸三の身を押しつつんでいった。

 救援部隊の到着を待ち、大破した涼月を呉へ曳航することになった初月を残して、やむなく赤城丸は瀬戸内海に取って返した。輸送作戦の立て直しである。
 瀬戸内海を東進し、紀伊水道を経て、太平洋へ。横須賀に入港したのち、艦隊が再編成されることになった。
 赤城丸に、愛国丸、靖国丸という二隻の輸送船が加わった。そしてこれらを白露、満潮、雷という三隻の駆逐艦が護衛する態勢で、一月二十四日、艦隊は横須賀を出港した。
 こんどは、平穏な航海が一週間ほど続いた。中部太平洋へ向かい順調に進んでいたが、ウェーク島まであと一日という段になって、ついに敵潜水艦に見つかった。
 最初の魚雷は、駆逐艦の雷に命中した。もうもうたる煙に艦がつつまれると、こんどは輸送船の靖国丸が被雷した。船は急速な浸水に見舞われ、千二百名もの将兵を乗せたまま沈んでいった。
 幸三たちの赤城丸もまた、狙われた。二発同時に発射された魚雷が波を盛り上げながらシュルシュルーッとやってきて、もう駄目だと幸三は目をつぶった。
 ところが何秒経ってもドカンとこない。恐る恐る目を開けると、二本の波の筋は、船の脇をきわどくすり抜けていたのだ。幸三たちは、九死に一生を得た。
 艦隊は大損害を受け、ウェーク島への到達は到底無理だと判断された。幸三たちはカロリン諸島内のトラック島で船を下ろされ、そこから駆逐艦で東へ運ばれた。着いた先は、ポナペ島。その島の守備が、急きょ与えられた任務だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?