小説「升田のごとく」・第6話
ウーロンハイは、6杯目のまま。カリカリ、氷をかじりながら、耕造の記憶は5年前の重大な場面へ差しかかる。
「お疲れのようですね、増田さん。たまには息抜きに、遊びにでも行きませんか?」
銀座1丁目の喫茶店で、そう話を持ちかけてきたのは、耕造がよく仕事を発注している下請けプロダクションの社長、三沢俊男だった。
「遊びに行くって、どこへ?」
耕造の問いに、三沢はニヤニヤ笑いを浮かべ、右手の小指をピンと立てて言った。
「コレですよ、コレ。増田さんも、嫌いな方じゃないでしょ。あちらの国じゃ、安―いお金で、若―い娘とやりたい放題なんですから。いひひっ」
なるほど、そういうことか。三沢の買春好きは有名だ。会社の同僚の中にも、これまで彼といっしょにツアーに参加した者が数人いる。
「ねっ、行きましょっ。増田さんにはいつもお世話になってるし、これから先もどうぞよろしくってことで」
下品な笑顔を作って、三沢がしつこく誘う。いつもの耕造であれば、もちろん即座に断るところだ。自慢ではないが、耕造は結婚してから今まで、一度たりとも浮気をしたことがない。いや、結婚前だって、由木子との交際中は他の女性と体を重ねたことはなかった。それは、彼の真面目な性格のゆえでもあり、モテない風貌のせいでもあるが。
しかし、その日の耕造は違った。残業につぐ残業で、疲れ果てた心は気晴らしを求めていた。帰宅しても、妻に拒み続けられる体は、肌のぬくもりを欲していた。一度の浮気くらいなら、許されても良いのではないだろうか。たった一度の、遊びくらいなら。
そう思うと、耕造は気が楽になり、とうとう誘いに乗る言葉を口にした。
「それって、いつ? 行き先は、どこ?」
「おっと、そうこなくっちゃ」
嬉しそうに手帳を取り出すと、カレンダーを見ながら三沢は言った。
「ゴールデンウイークなんて、どうです? 5月の1日から5連休ですよ。さて、行き先ですが、これはもう、微笑みの国、タイに限ります。首都バンコクから、北へ700キロ。北方の薔薇とも、タイの京都とも形容される麗しの都チェンマイで、エキゾチックなピチピチ娘がウジャウジャと、われわれの到着をお待ちかねでございますよ」
三沢の軽薄なトークに呆れながらも、耕造はすっかりその気になってしまった。ゴールデンウイークに、タイか。由木子を、どうやってごまかせばいいだろうか。
その不安を見透かすように、三沢が話す。
「なあに、奥さんには、仕事だって言えばいいんですよ。タイの東海岸、パタヤのビーチに、クライアントがリゾートマンションを開発中。その広告を請け負った新富エージェンシーは、建設現地を視察のため、コピーライターの増田さんを派遣することになったと。家族と過ごすはずの大型連休を、会社のために犠牲にするなんて、涙を誘う話じゃありませんか。とにかく増田さん、心配はいっさいご無用です。すべて、この三沢俊男に、ドーンとお任せください!」
オーダーは、ついに7杯目。体はふらふらしながらも、耕造の視線はしっかりと5年前を見据えたまま、南の国へと空間移動する。
耕造が指名したのは、リリーという名の娘だった。
まだ、あどけない顔をした、14歳。名前が示す通り、ゆりのように清らかな少女は、売春宿の2階の部屋のベッドで下着を脱ぎ、小さな蕾をのせた薄い胸と、まばらな雌しべをつけた花弁を顕わにした。
「オトコノヒト、マダ、アマリ、シラナイノ」
片言の日本語で、はにかみながら、身を横たえるリリー。未熟な娘を抱くことへの後ろめたさを覚えながらも、細い裸身に覆いかぶさっていく耕造。
行為が終わっても、二人は抱き合ったままでいた。リリーの長い黒髪を、優しく撫でさする、耕造。耕造の背中に回したしなやかな腕を、ゆるゆると動かすリリー。
やがて体を離すと、二人は静かに会話を始めた。
「オキャクサン、オナマエハ?」
「増田。マスダのコウちゃんだよ」
「マスダノコウチャン。トーキョーカラ、キタノ?」
「東京の隣のね、千葉県っていうところ。柏市めぐみ台353の10だよ」
「チバケン、カシワシ、メグミダイ、353ノ10。ソコハ、イイトコロ?」
「ああ、とてもいいところだよ。緑がいっぱいあって、のんびりしてて」
遥か異国の地に思いを馳せるかのように、リリーは遠い目をし、しばらく沈黙した。それから、また口を開いた。
「コウチャン、ワタシ、ノド、カワイタ」
その言葉を受けて、耕造はベッドの脇の電話を使い、リリーのためにフルーツミックスジュースを、自分にはウイスキーの水割りを注文した。
ややあって、部屋のドアがノックされ、若い男が飲み物を持って入ってきた。二人にグラスを手渡すと、男は愛想よく言った。
「トテモ、オニアイノ、カップルネ。キネンシャシン、トリマショカ?」
耕造が頷くと、男はカメラを構えた。裸で抱き合い、レンズににこやかな視線を向ける二人。
「ハイ、チーズ」
シャッターを切る音が、耕造の耳に心地よく聞こえた。つかの間の、夢のような世界に浸り、耕造は幸せだった。
酔いに緩んだ唇で7杯目のウーロンハイをちびりと啜り、耕造は5年前の、夢の体験を想起している。そして、その後に起こった悪夢のような出来事、ついに訪れた運命の瞬間へと心を移していく。
「話があるんだけど」
その夜、帰宅した耕造を出迎えたのは、ハナではなく、顔を強張らせた由木子だった。
2階のダイニングルームへ上がると、妻はテーブルセットの椅子に座った耕造の顔先に一通の封書を突きつけて、言った。
「こんなものが届いてたわよ」
耕造が手に取ると、それはエアメールだった。「JAPAN by AIR」の文字の下には、宛名がこのように書かれていた。
「353-10,megumidai,Kashiwa-shi,chiba-ken,MASUDA NO KOUCAN」
その瞬間、耕造はすべてを悟った。差出人の名前を見るまでもない。リリーが、こんなに優れた記憶力の持ち主だったとは。顔面が蒼白になり、冷や汗が溢れ出した。
エアメールは、すでに開封されていた。ぶるぶる震える指先を、その中に差し入れると、耕造は一枚の便箋をつまみ出した。恐る恐る、広げると、そこには短いメッセージが書かれていた。
「watashi,NIPPON,ittemitai.KOUCHAN,mukaeni,kitekureru?」
ああ。何ということだ。これが夢なら、覚めてくれ。耕造は、うなだれた。
「もう一枚、入っているわよ。カンジンなやつが」
怒気を含んだ由木子の声に抗えず、のろのろとした動作でもう一度エアメールの中に指を差し入れると、予想通り、写真のプリントの硬い感触がした。出して見るまでもない。裸で抱き合っている、44歳の中年男と、14歳の少女。
「どうしたの。見ないの。すてきなツーショットを」
「…………」
「釈明のチャンスを与えるわ。何か言いたいこと、ある?」
「…………」
「何も、ないのね。そう、分かったわ」
由木子は耕造の手から、航空便を引ったくった。勢い余って、封筒から写真が飛び出し、フローリングの床に落ちて滑っていった。
その先には、明日花が立っていた。
両親の不穏なやりとりが気になって、3階から降りてきたばかりの彼女は、自分の足元に滑ってきた写真を拾い上げた。そして、それを見た。
その瞬間、明日花の顔が大きく歪んだ。
心の中で、日に日につのらせていた父親への嫌悪感。それが、この思わぬ出来事で一気に膨れ上がり、とうとう臨界点を超えて爆発した。
「フケツ! ヘンタイ! サイテー! ドスケベ! バカオヤジ!」
怒りの涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらそう叫ぶと、彼女は手にした写真をビリビリと破り裂き、紙くずの塊にして、耕造目がけて投げつけた。娘の放った弾丸は、父親の頬を直撃し、跳ねて床に落ちた。
記憶の海を漂いながら、いつしか耕造はうとうとしている。頭部を前後に揺らしながら、姿勢はだんだんっと低くなり、やがて絆創膏を貼った額をカウンターに打ち当てた。
その衝撃と痛みで我に返った耕造は、ぼんやりとした視線を周囲に巡らせた。店内は、依然として満員の客だ。ふと、時計を見ると、すでに午後10時を回っている。この店に、4時間以上もいたわけか。
よろよろと椅子から立ち上がり、耕造は会計をしてくれと頼んだ。
「まいど。4500円になります」
それが、いつもと同様、無口な店主の口から出る、最初で最後の言葉だ。
料金を支払うと、冷たい風の吹く初冬の夜の通りへ、耕造はふらふらと歩き出た。
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