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将棋小説「三と三」・第15話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 風邪引きを、幸三は甘く見た。
 こんなもの、そのうち治るだろう。子供の頃から、身体の丈夫さには自信がある。そのうち良くなって、塚田との対局に臨めるだろう。そう思い、微熱を無視してお乳の家へ通い、天龍寺の決戦の棋譜を谷ヶ崎と研究した。
 周囲に予告した通り、先手の花田の7六歩に対して、阪田は端の歩を突いた。木村との一番で指した右端の9四歩とは逆の、左端の1四歩だった。新聞の報道に、またも世間は大騒ぎをしたが、冷やかな声が多かった。負けたときの言い訳にするのだろう、奇を衒っただけの手じゃないか。そういう意見の飛び交う中でも、その手が理詰めの近代将棋に対して挑戦を続ける、阪田一流の新手であることを幸三は信じて疑わなかった。
 天龍寺の決戦が四日目を迎えた三月二十五日の朝、幸三は東京行の汽車に乗り、大阪駅を出発した。熱を帯びたままだった。咳も出るようになっていた。
 それでも幸三は、己の体力を信じていた。なあに、明日までには熱も下がり、塚田と存分に戦えるだろう。もしも下がらなくても、これくらいの熱があったほうが強い手が指せるというものだ。大阪駅のホームで買った新聞を開き、阪田と花田の将棋を頭の中で並べながら、幸三は東海道線を揺られていった。
 しかし、自信は過信だった。額に手を当てると、熱の上がっているのが感じられた。咳は激しくなり、痰も出た。
 夜になり、列車が熱海駅を過ぎた頃から、幸三は額を窓ガラスに押し当てて冷やすようになった。鼻詰まりでもないのに、呼吸が苦しくなっていた。明日の対局、無事に戦えるだろうかとの不安が、胸をよぎった。
 東京駅のホームに降り立つと、ふらふらとよろけながらも幸三は電車に乗り換え、赤坂表町の将棋大成会本部に何とか辿り着いた。そして、すぐ床に就いた。
 対局一日目の、三月二十六日。
 目覚めた幸三は、体調のさほど改善していないことを感じた。出された朝食を、できるだけ食べようとしたが、半分がたは残した。職員に体温計を借り、計ってみると、三十八度五分の熱があった。そのことを誰にも告げず、対局室に入った。
 幸三の先手番で、東西若鷲戦が始まった。持ち時間が九時間ずつの、長い将棋だ。二日目に備えて体力をできるだけ温存しようと、幸三は自ら打って出ることはせず、相手に攻めさせてから反撃しようという作戦を採った。
 相手の塚田は、長身痩躯。背筋をピンと伸ばして端座し、きれいな手つきで駒を動かした。幸三も、体はきつかったが、正座を崩さずに手を読んだ。咳が出そうになるたびに、席を外して手洗いに行き、ゴホゴホとむせて痰を吐いた。
 将棋は相居飛車の駒組みから攻勢に出た塚田が、銀を交換したのち、桂馬を跳ねてきた五十四手目で第一日目を終えた。
 対局二日目の朝。
 熱はさらに上がって、体温計は三十九度近くを示した。対局室に入った幸三は正座をするのも苦しくなり、塚田に「失礼します」とことわってから座布団に胡坐をかいだ。
 その幸三の陣に、塚田の駒たちが襲いかかる。角の交換から、馬を作られ、玉の急所に銀を打ち捨てられ、飛車を成りこまれた。懸命に防御する幸三だが、ここへ至っては受けきるすべはない。そもそも思考力自体が無いのだ。もはや咳きこむ姿を隠そうともせず、脂汗をかきながら、それでも幸三は指し続けた。
 自陣の飛車を犠牲にして防戦に努め、渡したその飛車を打たれて攻められる玉を、盤の中央へ逃がしていく。塚田は竜を切り捨て、銀を手に入れ、もう一枚の飛車を竜に成って、幸三の玉を追いつめていく。その玉は、3四の桝目の中に釘づけにされた。
 持ち時間が残り一分になるまで粘ったが、相手の指した百三十二手目、4六竜の決め手を見て、幸三は投了した。完璧に破壊された自陣とは正反対に、塚田の陣は無傷に等しい。幸三の完敗であり、惨敗であった。
「君、昨日から体を辛そうにしていたが、今日はさらに具合が悪そうだ。大丈夫かい?」
 勝った塚田が心配そうに訊くと、
「大丈夫です。不出来な将棋で申し訳ありませんでした」
 負けた幸三はそう答え、よろよろと立ち上がり、対局室を出た。入れ違いに、撮影機材を抱えた取材陣が勝者のもとへ向かった。
 幸三は、銀座へ行こうと思った。若子に会いに、腰かけ銀へ行こうと思った。
 本来であれば、今日勝ってから、明日行くつもりだった。新聞に載った写真を若子が見たのちに、本物の升田幸三の顔と姿を彼女に見せたかった。
 勝てるつもりの対局だった。負けたのは、病気のせいだったかもしれないが、それを招いたのは自分の不摂生だ。勝てるだろうという驕りが、その不養生を招いたのだ。自業自得だ。勝負師として、失格だ。
 体はふらふらで、頭もぼうっとしてきた。咳は止まらないし、呼吸も苦しい。胸まで痛くなってきた。それでも幸三は、銀座へ行こうと思った。
 敗戦を、明朝の新聞記事で若子に知られるのは、耐え難く恥ずかしいことだった。同じ知られるのであれば、自分の口から正直に、「負けました」と伝えたかった。それが、せめてもの矜持だった。それで弱い男だと嫌われるのであれば、諦めもつくと思った。
 将棋大成会の本部を出て、電停まで歩いていくことはできた。
 電車に乗り、銀座四丁目で降りて、松屋の脇を通り、腰かけ銀の店前まで辿り着くこともできた。
 だが、幸三の余力は、そこで尽きた。どんなに頑張っても、そこまでだった。
 店のドアにもたれ掛かった幸三は、その重みでドアを押し開け、店内へ倒れこんだ。
「升田さん! 升田さあん!」
 薄れていく意識の片隅に、若子の声が聞こえた。

 車を呼び、築地の病院へ、若子は幸三を運んだ。
 病室のベッドで昏睡している幸三に寄り添い、寝ずの看病をしながら、彼女は祈った。
 神様、お願いです、この人を助けてください。まだ十九になったばかりのこの青年を、神様、どうか助けてください。
 お医者様には肺炎だと告げられました。急性肺炎に罹っており、今夜が山だろうと言われました。
 どうしてこんなに悪くなるまで放っておいたのか、と叱られました。私には、その理由が分かりません。あんなに元気な様子の手紙を、二週間前にもらったばかりなのに。
 でも、この青年が病魔に冒されていることは確かな事実ですし、意識を失いながらも私に会いにきたのは、きっと体調を損ねていった原因が、私にも関係があるからなのに違いありません。
 運を天に任せるほかは無いとも、お医者様はおっしゃいました。ですから、神様、私は今こうしてお祈りを捧げているのです。お願いです、どうか、この人を助けてください。
 私は、五つのときに、お母さんを亡くしました。
 六つのときに、弟を亡くしました。
 八つのときに、二人目のお母さんを亡くしました。
 どうして、私の大切な人たちは、次々と天に召されていったのでしょう?
 どうして、私の身の回りにいる人たちは、悲運の道を辿っていくのでしょう?
 この人もまた、私の身に近づいてしまったばかりに、このような酷い目に遭っているのだとしたら、いったい私はどうすればよいのでしょう?
 ですから、神様、お願いです。この人を助けてください。そして私を助けてください。この人が助かることによってのみ、私自身も助かることができるのです。
 神様、お願いです、この人と私を助けてください。
 どうか、どうか、助けてください。
 神様、神様、神様……。
 そのときだった、幸三の口が小さく開いたのは。
 開いたその隙間から、言葉が洩れた。
「……お……」
 若子は幸三の口元へ、耳を近づけた。
「……おか……」
 若子は毛布の下へ両手を差し入れ、幸三の右手を握った。
「……おかあ……」
 若子は幸三を握る手に、力をこめた。
「……おかあ……さん……」
 幸三の右手が、若子の手を握り返してきた。
「……おかあさん……」
 その声と、右手の反応に、意志の力を感じ、若子は幸三が生還したのではないかと思った。
 しばらくして病室のドアが開き、医師と看護婦が入室してきた。その後に続いて、将棋大成会大阪支部の人間たちも部屋へ入ってきた。その中には谷ヶ崎の姿もあった。
 ベッドの脇を医師と看護婦に譲ると、若子は男たちのほうへ向き直った。そこへ、谷ヶ崎が言葉をかけた。
「升田君が入院したと電報をくれはったのは、貴女ですか? 若子さんという方は、貴女ですか?」
 若子が頷くと、
「おおきに。ほんまに、おおきに」
 そう言って、谷ヶ崎は深々と一礼した。ほかの者たちも、それにならった。
 そのとき、若子の背後で医師の声がした。
「熱が下がっている。脈拍も落ち着いてきた。どうやら峠を越えたようです」
 それを聞いたとたん、若子の全身から力が抜けて、床へくずおれた。危うく谷ヶ崎が抱きとめた。


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