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みかんの色の野球チーム・連載第29回

第4部 「熱狂の春」 その1

 
   6年間を過ごした津久見小学校と、お別れをする日が来た。
   3月20日の卒業式。
 その朝、私は、紺色のブレザーにグレーのズボンという出で立ちで、両親といっしょに最後の通学路を歩いた。
 細い縦縞のシャツには、オレンジ色のネクタイ。足には、やはりオレンジ色のソックス。
 つまり、あのユカリの誕生日会のときとまったく同じ服装なのだが、5か月ぶりに着てみると、父の手製の晴れ着は、ブレザーやシャツの袖もズボンの裾もかなり短くなっており、いつの間にか自分の身体が大きくなっていることに気づいた私は、少なからず驚いた。
 講堂で行われた、式典。
 1人1人、名前を読み上げられて壇上に昇り、父兄たちの拍手を聞きながら、校長先生から卒業証書を受け取った。そして最後に、卒業生全員で「仰げば尊し」を歌って、私たちは校門を出た。
 こうして、晴れて小学校卒業の身となった私だが、とくに感慨というものはなかった。
 6年間をともにした仲間たちみんなとは、春休みが終わって4月10日が来たら、こんどは津久見第一中学校でまたいっしょになる訳だし、つまりそれは単なる登校先の変更を意味するに過ぎず、小学校よりも自宅から近い中学校へは、わずか15分で通学できるということが、私はむしろ嬉しかった。
 お世話になった先生たちとは、狭い町なか、これからもちょくちょく顔を合わせるだろうから、別れの寂しさというものもなかった。
 ただし、昼休みの校庭で夢中になって遊んだドッジボールが、中学校ではもうできなくなるのだろうなと思うと、それが少し残念だった。
 とにもかくにも、これから春休み。
 もはや小学生ではなくなり、けれどもまだ中学生にはなっていないという、妙な立場の12歳の心を占めていたのは、もちろん、あと10日後に甲子園で活躍をしてくれる、みかんの色の野球チームだった。
 
 翌日の午後、いつもの仲よしたちと、私は市民グラウンドにいた。
中学生になったら、みんな野球部に入ることに決めていたので、その肩慣らしということもあって、本日はキャッチボールを。
 広いグラウンドの中、めいっぱいの距離を取り、私はカネゴンと、ブッチンはヨッちゃんと、体を思いっきり動かして投球、捕球を繰り返していた。
 あの雪の日の寒さが嘘のように、春の日差しは温かくて心地よく、市役所の外壁に取り付けられた「祝・津久見高校センバツ初出場」の大きな垂れ幕は、私たちの気分をウキウキさせていた。
「おーいっ!」
 そのとき、遅れてやって来たペッタンの、大きな声が聞こえた。
「いいもの、持って来たぞーっ!」
 その声に、私たちはキャッチボールを中断し、ペッタンの方へ近寄っていった。
「ほうら、見てみい、これ」
 得意げな顔をして、彼が私たちに差し出したのは、A4くらいのサイズの横開きのパンフレットだった。
 赤と黒の2色で印刷された表紙には「ガンバレ、センバツ!」という大きな見出しがあり、それに続くタイトルは「津久見高校野球部を送るしおり」と書いてある。それらの下、表紙の真ん中にレイアウトされているのは、バットを持って立ち並んだ、オレンジソックスの選手たちの写真だった。
「おおーっ!」
 ブッチンが感嘆の声を上げると、
「どげえしたんか、これ!」
 ヨッちゃんも負けないくらいの賛嘆を示し、
「こげなもの、どげえして、おまえが持っちょるんか!」
 カネゴンのさらに大きな驚嘆に続いて、
「見せて! 見せて! 早う! 見せて!」
 最大ボリュームの声で、私が請願した。
 私たちを充分すぎるほどにビックリさせたことに満足したらしく、
「これはのう、津高野球部の後援会が作ったパンフレットじゃあ。ウチのとうちゃんが昨夜、手に入れて、何べんも繰り返して読みよった。俺も、今朝、読んだ。津高チームの最新情報やらが満載じゃあ。おまえどーにも読ませてやろうち、持って来たんじゃあ」
 そう言いながらペッタンは、私たちに見えるように、ゆっくりと冊子をめくり始めた。
 最初のページには大分県知事と大分県高野連会長からの、次のページには津久見市長と津久見市議会議長からの、津高野球部への激励のメッセージ。
その次のページには、津久見高校長と津久見高校同窓会長からの、ご挨拶。
ここまでの内容は、漢字だらけで、私たちが理解するには至難なものだったが、
「さーて、行くぞーっ!」
 ペッタンの気合声とともに開かれた、その次のページは、たちまち4人の目を輝かせ、釘付けにした。
 そこには、小嶋監督以下、部長や選手たちの全身写真が大きく載っており、センバツに臨む各メンバーのポジションや抱負が、数ページに渡って紹介されていたのだ。
 猛練習の末に、最終的に甲子園ベンチ入りの座を獲得した14名。(※注)それらを、1人1人じっくりと確認しながら、私たちは読み進んでいった。
 
 監督、小嶋仁八郎。
「今回の出場は、昭和27年の監督就任以来、15年目にしてやっと掴んだチャンスだ。投打ともに良くまとまった選手たちとともに、晴れの舞台で暴れてみせる」
 野球部長、児玉義行。
「初出場だけに、選手の喜びは大きく、張り切りぶりは頼もしいばかりだ。実力は、出場全チームの中でもAクラスだと信じている。ぜひとも郷土の期待に応えたい」
 背番号1。投手、吉良修一。
「郷土のため、母校のため、チームのため、悔いのない戦いをします」
 背番号2。捕手、山田憲治。
「日頃の練習の成果を充分に発揮し、一戦一戦、ベストの試合をします」
 背番号3。一塁手、広瀬良介。
「何ものも恐れないファイトで、最善を尽くします」
 背番号4。二塁手、萩本有一。
「とにかく、力いっぱいやるだけです」
 背番号5。主将・三塁手、山口久仁男。
「勝って勝って勝ち抜いて、校歌をできるだけ多く甲子園に流させたいです」
 背番号6。遊撃手、矢野敏明。
「思いきったプレーをやる。ただそれだけです」
 背番号7。左翼手、大田卓司。
「守っては、絶対にボールを逃しません。攻めては、好球を必ず打ち返します」
 背番号8。中堅手、五十川貴義。
「しぶといバッティングをし、出塁して敵の内野を掻き乱します」
 背番号9。右翼手、岩崎新次。
「ここ一発というチャンスに打ち、郷土の声援に応えたいです」
 背番号10。投手、浅田文夫。
「優勝旗の花を郷土に咲かせ、津久見の歴史を飾りたいです」
 背番号11。捕手、足立由晴。
「思いっきりやります。悔いのないプレーをやります」
 背番号12。内野手、前嶋幸夫。
「一試合一試合に全力を尽くし、チームのため、郷土のために頑張ります」
 背番号13。内野手、麻生立美。
「チームプレーに徹し、大いに甲子園を沸かせたいです」
 背番号14。外野手、吉田泰秀。
「全国制覇を目標に、頑張ります」
 
「おおっ! 吉良が背番号『1』じゃあ! エースナンバーはずーっと浅田が付けちょったにい!」
 ブッチンが、驚きの声を上げた。
「あの雪の日に、前嶋選手が言うた通りになったのう。重てえ鉄板の入った靴を履いて、毎日10キロのランニングを欠かさんかった努力が実ったんじゃあのう」
 彼のドロップが1メートルも落ちると言った、小嶋監督のジョークを思い出しながら、私が応じた。
「その、前嶋のユキにいちゃんは、背番号『12』かあ……。何とかベンチ入りは果たしたけど、セカンドのレギュラーポジションは獲れんかったのう……」
 従兄弟の写真を見ながら、ヨッちゃんが、やや残念そうに口を開いた。
「なあに、前嶋選手は、あれだけの強運の持ち主じゃあ。甲子園でも、なんか、どえれえことをやりそうな気がするわい」
 カネゴンがそう言って、ヨッちゃんを慰めた。
「最後のページにのう、出場する24校の名前が載っちょる。もう新聞で見ちょるけど、もういっぺん確認しちょかんと、のう」
 その言葉とともに、ペッタンがもう1枚をめくり、そこに並んだ津高のライバルたちを、私たちは頭の中に焼き付けた。
 
 札幌光星高(北海道東北地区/北海道)初出場
 仙台商高(北海道東北地区/宮城県)初出場
 桐生高(関東地区/群馬県)11回目
 桜美林高(関東地区/東京都)初出場
 甲府商高(関東地区/山梨県)初出場
 愛知高(中部地区/愛知県)初出場
 三重高(中部地区/三重県)2回目
 県岐阜商高(中部地区/岐阜県)20回目
 富山商高(中部北信越地区/富山県)2回目
 若狭高(中部北信越地区/福井県)2回目
 平安高(近畿地区/京都府)25回目
 近大付属高(近畿地区/大阪府)初出場
 明星高(近畿地区/大阪府)4回目
 報徳学園高(近畿地区/兵庫県)2回目
 三田学園高(近畿地区/兵庫県)初出場
 市和歌山商高(近畿地区/和歌山県)3回目
 倉敷工高(中国地区/岡山県)5回目
 尾道商高(中国地区/広島県)2回目
 新居浜商高(四国地区/愛媛県)初出場
 松山商高(四国地区/愛媛県)13回目
 高知高(四国地区/高知県)4回目
 津久見高(九州地区/大分県)初出場
 熊本工高(九州地区/熊本県)9回目
 鎮西高(九州地区/熊本県)初出場
 
「おりょー。優勝候補筆頭の平安は、25回目の出場かあー。数字だけでも圧倒されるのう。続いて、県岐阜商の20回、松山商の13回……」
 各校の出場回数を見比べながら、ブッチンが言った。
「初出場の学校も、多いのう。ひい、ふう、みい……。津高を入れて、10校もある」
 指でなぞって数えながら、カネゴンが続けた。
「なあに、出場回数ばかりが能じゃあ無え。たしか新聞の下馬評では、優勝候補は平安の他に桐生やら甲府商やら市和歌山商やら報徳学園やら松山商やら高知やら熊本工やら……、おう、西日本勢が多いのう」
 ヨッちゃんが西高東低の事実を発見すると、
「津高も西日本じゃあし、優勝候補に上げられちょる熊本工と接戦をしたんじゃあけん、有力候補っち言うてもいいかもしれんのう」
 ペッタンが自信たっぷりの意見を述べ、
「まあ、組み合わせのクジ運にもよるけんどのう。もしも熊工と対戦することになったら、九州大会の借りを返さんといけんし、もしも報徳と当たったら、去年の夏の甲子園の雪辱を果たさにゃならん!」
 私が、意気込みを披露した。
「ああ! 燃えてくるのう! 優勝してえのう!」
 私に触発されたのか、ブッチンが大声を上げ、
「おうーっ!」 
すばやく呼応して、4人も声をそろえた。
「ところで、津高は、いつ出発するんじゃろうか?」             
 ブッチンが、誰にともなく訊ねると、
「明後日。23日じゃあ。津久見駅から汽車で別府駅まで行って、別府港からフェリーに乗って、翌朝に神戸港着。そこからバスで、甲子園の近くにある宿舎まで直行じゃあ」
 さすがはペッタンが、情報通ぶりを発揮して答えた。
「ちゅうことは、今頃、最後の猛練習の最中かのう」
 カネゴンがそう言い、
「行ってみるか!」
 ヨッちゃんの提案に、
「おうーっ!」
 またしても、みんなが声をそろえた。
 そろそろ、夕刻。春とはいえ、日が落ちるのは早い。
 暗くなるまでに、オレンジソックスの練習を、この目で見なければ。
 都会とは違って、田舎の練習場には、照明の設備などないのだ。
 私たちは、津高のグラウンドへと急いだ。
 
「うわーっ! なんじゃあ、こりゃあーっ!」
 目的地に着くなり、ペッタンが驚きの声を発したのも、無理はなかった。
 私たち5人の目に飛びこんできたのは、選手たちの姿ではなく、グラウンドをぐるりと取り囲む、見物客たちの人垣だったのだから。
 何千人もの市民たちが形成している、十重二十重の人間フェンス。津高の熱狂的なファンが自分たちだけではないことに、私たちは気づくのが遅かった。
「オーイッ! オーイッ! オーイッ!」
「オーイッ! オーイッ! オーイッ!」
「オーイッ! オーイッ! オーイッ!」
 大観衆の人垣とざわめきを飛び越えて、選手たちの掛け声が聞こえてくる。それを耳にしていると、見えない選手たちの動きが、心のスクリーンに鮮やかに映し出されてくる。今日の私たちには、もはやそれだけで充分だった。
 そして、声は、グラウンドだけから聞こえてくるのではない。私たちの頭の上からも、雷鳴のように轟き、降り注いでくるのだ。
 ふと見上げると、その発信源は、津久見高校の校舎の屋上。
そこには、黒い学生服に身を包み、オレンジ色のハチマキを締めた、応援部員たちの姿があった。
「オラオラオラーッ! もっともっと声を出せーっ!」
「オラオラオラーッ! 腹の底から声を出せーっ!」
「山に向かって声を出せーっ! 声が山に跳ね返りーっ、戻って来るまで声を出せーっ!」
「山に向かって声を出せーっ! 戻って来るまで声を出せーっ! 死んでもいいから声を出せーっ!」
 選手たちが燃えている。
観衆たちが燃えている。
応援部員たちが燃えている。
そして、津久見市民の、4万の闘志が燃えている。
センバツの開会まで、あと8日。
だが、すでに、熱狂の春は幕を開けているのだ。
 
 
 
(※注)現在は18人の選手がベンチ入りできるが、この当時は14人に限られていた。


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