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将棋小説「三と三」・第33話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




「木村名人、惨敗! 郷土・大阪期待の升田七段、五番勝負の初戦を制す!」
 大きな見出しで第一局の結果を報じた「新大阪」は、飛ぶように売れ、第二局以降への興味を大いに読者に抱かせた。香落ちでこれほどの反響なのだから、次の平手戦にも升田が勝てば、話題沸騰となるのは間違いない。編集局長は欣喜雀躍した。
 そして、さくら旅館から同じく宝塚市内の旅館「宝楽」に場所を移し、前局から中一日置いた九月二十日、第二局が開催された。
 午前九時。記録係の二見敬三初段の合図とともに、両者礼を交わし、先手の幸三が2六歩と飛車先の歩を突いた。
 それを見て、
「ほう、居飛車かね。てっきり石田流で来るものと思っていたよ。三年前の対局で、たまたま上手くいった戦法でね」
 と木村が言った。
 すると幸三は、
「期待を裏切って申し訳ありませんね。今日の作戦は石田流ではなく、升田流です。『石』と『升』で一文字違いますが、名人を苦しめるのに違いはありません」
 余裕綽々として言い返した。
「ふん。七段風情が」
 その言葉とともに8四歩とこちらも飛車先の歩を突いた木村は、駒から指を離すと、プイと横を向いた。
 初戦の香落ちを完敗したというのに、相変わらず木村は強気だった。だが幸三には、彼の態度や物言いが、ただ虚勢を張っているようにしか見えなかった。
 局面は、飛車先の歩を交換した幸三が、2六の桝目へ飛車を引く浮き飛車に構え、玉を金銀三枚で守る蟹囲いに移したのに対して、木村は角道を開け、右の銀を6二に上がり、5四歩と突いて中央を狙う動きを見せている。
 そして幸三が7六歩と角道を開けたところで、午後六時、木村は手を封じた。

 夕食後、新大阪の記者の取材を受けた木村は、こう話した。
「升田君は確かに強くなりましたよ。この木村がじっと腰を据えて指しますと、八段連中でさえ吹っ飛んでしまうんですがね、盤から一尺も二尺も。まあ、初戦の香落ちは座興のようなものです。そろそろ本気を出して、吹っ飛ばしてみせましょうかね、三尺ほど」
 
 二日目の午前九時になって、対局が再開された。
 木村の封じ手は、中央の位を取る5五歩だった。これに対して、幸三は7七角と上がり、木村からの飛車先の歩交換を阻んだ。そして木村が4二銀と上がって玉を守り、5三から5四へと攻めの銀を繰り出してきたのに応じて、幸三もまた右の銀を3七から4六へと前線に送りこんだ。
 木村、5二の桝目へ飛車を転回し、中央突破の狙い。幸三、3五歩と突いて先攻する。木村、4四角と出て、その攻めをいなそうとする。幸三、3六へ飛車を回し、攻めに力を加える。木村、3五で衝突していた歩を、同じく歩と取り、幸三の同じく銀の手に対して4五銀と、相手の飛車に当てて出る。幸三、飛車を3八へ引く。
 木村、角を4四から6二へ引き、幸三の4六歩突きに対して5四銀と逃げる。幸三が攻めの銀を3四へ進めたとき、木村は7四歩と突いて角や桂馬の活用を図ったのだが、この手が大失着だった。
幸三の次の手は、飛車の利きを2筋に移す、2八飛。それを見た木村は
「ああーっ」
 と、悲鳴にも似た声を発した。
 幸三の狙う2三銀成の手が、受からなくなってしまったのだ。
「バカなことを……何をやってるんだ……」
 盤に被さるように体を傾け、自嘲の呟きをもらす木村。7四歩と指す前に、当然3三歩と打ち、幸三の銀を2五の桝目へ追いやらなければならなかったのだ。あまりにも迂闊で致命的な過ちだった。
 長考呻吟のすえ、木村は3三銀と上がり、幸三の2三銀成には、2六歩と角の利き筋に打って相手の飛車先を止めたものの、2四歩と打たれ、大きな攻撃拠点を作られてしまった。
 事実上、将棋はすでに終わっているのだが、昨夜の取材で「三尺ほど吹っ飛ばしてみせる」と豪語した手前、簡単にあきらめるわけにはいかない。
 そこで右の金を上がって守りに加え、角と右の銀を使って5筋からの反撃を見せたが、もはや形づくりに過ぎなかった。幸三は冷静に対応し、相手の玉を左右から挟撃し、最後は3五角成の手で討ち取った。
「大変な間違いをやった……もうダメだ……」
 そう呟いたのち、木村は投了した。
 七十九手という、初戦を上回る短手数の将棋だった。木村の消費時間は八時間を超えているのに、幸三は三時間ちょっとしか使わなかった。文字通りの圧勝だ。
「さんきい先生、ついに平手で木村を倒しましたよ」
 心の中で、幸三は阪田に報告した。

 夕食後、新聞に載せる自戦記を記者から求められた幸三は、部屋に入り、このように書いた。
「落武者に、とっぷり日は暮れ果てて、鳥の羽ばたきにも追っ手と見まちがう、戦慄にさも似たり。名人がうち震う手で玉を握りかけたが、しばし思いとどまって、もはや逃れるすべの無きを知る」。
 無敵名人の狼狽ぶりを、幸三は冷ややかに観察し、まるで平家の落人のように面白おかしく表現してみせたのである。
 これに写真や対局風景のスケッチを数枚添えて、棋譜や記事などの原稿は、新聞社へ届けられた。そして翌日、次の見出しが新聞の第一面を飾った。
「またも木村名人、惨敗! 我らが大阪の星・升田七段、平手戦にも勝つ!」
 幸三の快挙を報じた新大阪は、前号にも増して、売れに売れた。

 第一局の香落戦、第二局の平手戦と、幸三が連勝して、日本中は騒然となった。実力名人制度になって連続五期、不動の地位を誇る木村名人が、二局続けて惨敗したのである。
 それも相手が名のある八段ならともかく、まだそれほど実績のない大阪の七段にやられたのだから、愛棋家たちが大騒ぎをしたのも当然だった。
 大成会の幹部たちもまた、頭を抱えてしまった。名人は、将棋界最高の権威である。このまま対局を続行し、もしも名人が三タテを食ったりしたら、その権威は失墜し、棋界の調和は保たれなくなってしまう。
 とうとう中止の声が出た。その一方で、五番勝負と謳って始めたものを途中でやめるなど間違っている、続けて指すべきだとの意見もあった。
 大成会執行部内の紛糾を、幸三は静観していた。九月の二十一日に第二局を終えて以降、十月を過ぎても音沙汰がなかったが、幸三からは催促をしなかった。編集局長はヤキモキし、谷ヶ崎は、
「あきれてモノも言えへん。阪田先生が生きてはったら、大成会の幹部連中を怒鳴りつけてるところだっせ」
 などと憤りを露わにした。
 そうして十一月も下旬を迎えようという頃、当事者の木村名人が声明を出した。
「約束通り、残りの三局を指しましょう。香落ち、平手と、半香で二番負けたのだから、次からの手合いは平手でよろしい」
 幹部らの反対を押しきっての発言だった。大成会と新聞社の間で至急、段取りが組まれ、第三局は十二月六日、七日に、奈良で行なわれることになった。

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