小説「ノーベル賞を取りなさい」第34話
あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。
ランチのあとアクセサリーショップ見物で時間を過ごした四人は、金沢駅を午後三時発の特急列車「能登かがり火5号」に乗り、和倉温泉駅に向かっていた。到着予定時刻は三時五十九分だ。
出発してから四十分ほどが経ったとき、窓の外がだんだんと暗くなり、やがて雨が降ってきた。
「あれー。石川県地方のお天気を調べたら、今日も明日も晴の予報だったのに」
と、亜理紗。
雨はだんだん強くなり、列車の窓を叩いていく。由香はスマホを取りだし、気象情報のアプリを立ち上げた。
「能登地方に急な雷雨のおそれ。大陸からの冷たい季節風と、対馬海流からの暖められた水蒸気により、日本海上で雲が発生します。これが季節風に乗って平野部から山岳部に上陸し、降雪と落雷を起こすのです。なお、冬の雷の発生は世界的に見ても非常に珍しく、日本海の沿岸以外ではノルウェーの大西洋沿岸に限られた気象現象ですって」
由香がニュースを読み上げると
「雷が来るまでに、さざ屋に着けるかしら」
と、留美が心細そうに言った。
「だいじょうぶですよ。もうすぐ駅だし」
と柏田が言ったそのとき、到着を告げる車内アナウンスが流れ、やがて列車が和倉温泉駅のホームに滑りこんだ。
改札を通ると、送迎バスが待っていた。雨に濡れ、キャリーバッグを引きながら駆けていき、座席に腰を下ろすと、四人はハンカチで顔や髪を拭いた。
「傘を持ってこなかったのはウカツだったわね。早く温泉で暖まりたいわ」
留美がそう言って間もなく、バスが動きだし、数分後には五棟の建物から成る、さざ屋の威容が迫ってきた。
フロントに荷物を預け、広い館内を仲居に案内され、十階でエレベーターを降りて廊下を進むと「さざ波の間」があった。入室し、障子を二つ開くと奥には大きな窓があり、七尾湾が一望できるのだが、せっかくの美しい景色も豪雨にかすんでしまっている。時おり稲妻が走るようになり、雷鳴も聞こえてきた。
お茶を入れながら、仲居が言った。
「せっかく東京からお出でくださったのに、あいにくのお天気で。でも、ガラス越しに雨を見ながらの温泉もまた、風情がございますよ。殿方の湯は二階、御婦人の湯は三階です」
仲居の説明に
「ろ、露天風呂は何階ですかっ? 混浴の露天風呂はっ?」
と由香があわてて訊くと
「たいへん申し訳ないのですが、雨の日は露天風呂の入浴は中止とさせていただいております。とても危ないですし、とくに今日みたいな雷雨の日には、なにが起こるか分からないものですから」
無情の返答に、由香は絶望の底に突き落とされた。
午後五時過ぎ。石ヶ崎らを乗せたハマーH1は、さざ屋に到着した。旅館の駐車場ではなく、反対の海側に空きスペースを見つけると、そこに車を駐めた。
「冬の稲妻か。とんでもねえ天気になっちまったな。ま、戦の夜らしくて、いいか」
石ヶ崎の言葉に
「当初の攻撃計画は、時を待ち、夜陰に乗じるものでした。しかしこの激しい雷雨に宿泊客やホテルのスタッフたちが慌てふためく中、その混乱に乗じ、いますぐ作戦を決行してはいかがでしょう」
と、押村が応じた。
「なるほど。さすがは軍師オッシー、目のつけどころがいいわい。よしっ、剣道部・鷲峰、弓道部・鷹巣、柔道部・蛇沼、空手道部・鰐淵。さっそく建物に入り、本物のスタッフになりすまして四人の部屋を突きとめ、ババアの首をとってこい!」
「オス!」
四人は声を揃え、車を出て豪雨の中へ飛びだしていった。
入浴を終えた三人の女性たちが、浴衣に丹前姿で、さざ波の間に戻ってきた。
「あー、いいお湯だったわねー。雨で冷えていた体が、すっかり、ぽかぽかよ」
と、留美。
「広―い湯船でリラックスできて、最高に気持ちよかったですね。寝る前にもういちど入ろうっと」
と、亜理紗。
「いい湯だな、あははん。全身きれいに洗ったわ。とくにアソコは念入りに。ねえ、総長。今夜は、どの部屋に、誰が寝るんですか?」
と、由香。
「それは、こっちの広い部屋に私たち三人が、あっちの狭い部屋に柏田さんが一人で寝ることになるんでしょうね」
「えー。がっくし……」
由香は、うなだれた。
「そう言えば、柏田さん、長湯ですね。湯船の中でアライグマちゃんと遊んでいるのかしら」
亜理紗がそう話したとき、入り口の戸が開き柏田が戻ってきた。
「あ、俺が最後だったんだ。久しぶりの温泉だったもので、ゆっくり楽しませていただきました」
そう言って座布団に座ると
「さっき廊下を歩いていたら、食事の配膳作業が進んでましたよ。来るはズワイかノドクロか、はたまた寒ブリか岩ガキか。いずれにせよ、まずは冷たいビールで乾杯しましょうね」
しばらくすると、その言葉の通り、入り口のチャイムが鳴った。
「はいはい、どーぞ。開いてますよー」
と柏田が立ち上がると、四人の男たちが入室してきた。ポーターの制服を着てはいるが、揃いも揃って目つきが悪く、刀や弓を手にしている者もおり、尋常ならざる事態の到来に気づいた柏田が
「な、な、なんだ、おまえたちは! ここは客室だぞ! 無礼者!いますぐ出ていけ!」
と声を荒らげると
「大隈大学総長のお命頂戴!」
との発声とともに、男たちは座敷に上がりこんできた。この状況に素早く反応したのは亜理紗だった。座椅子から飛び上がったかと思うといつの間にか丹前を脱ぎすて、浴衣姿のまま戦闘態勢に入った。そして
「総長を奥の部屋に!」
と柏田に指示すると、貫き手で襲いかかってきた空手道部・鰐淵の右手をかわし、逆に左の貫き手を相手のみぞおちに突き入れた。「ぐふっ」
という声とともに鰐淵は畳の上にどさっと倒れ、苦しみ悶えて気絶した。
続いて掴みかかってきたのは柔道部・蛇沼だった。亜理紗の貫き手を怖れて左手を握り、足技で転がし締め技に持ちこもうとしたのだが、それより早く彼女は右の貫き手を相手の喉仏に突き入れた。
「げほっ」
という声を残して蛇沼は畳にくずおれ、呼吸困難に陥って七転八倒した。
その直後だった、剣道部・鷲峰が亜理紗の背後で抜刀したのは。
「後ろっ!」
という由香の大声にとっさに身をひるがえした亜理紗だったが、相手は真剣を大上段に振りかぶったまま、じわじわ間合いを詰めて
くる。そのとき、由香の右手から二つの物体が続けざまに鷲峰めがけて放たれた。一つめは相手の右目を、二つめは左目を直撃した。
「痛っ」
一瞬、視力を失った鷲峰への攻めの好機を亜理紗は見逃さなかった。股間へ強烈な蹴りを入れると相手は畳にうずくまり、
「ひーい、ひーい」
と、刀を放りだしたまま苦しそうな泣き声を出した。奪った刀を鞘に収めた亜理紗が畳の上を見ると、将棋の駒らしき物が二つ落ちていた。
「パパから借りた金将と玉将が役に立ったわ。亜理紗さんの股間蹴りと合わせて、ダブル金玉攻撃ね」
そう由香が言った直後、弓道部・鷹巣の放った毒矢が障子を二枚貫き、総長と柏田が避難している広縁を襲った。
「あーっ!」
という柏田の悲鳴。しまった!という表情の亜理紗は、射手の鷹巣の後頭部に強烈な回し蹴りをくらわせて昏倒させると、由香とともに部屋の奥へ走った。
広縁には二脚の籐椅子があり、それが縦一列に並べられていた。奥の椅子に座った留美は無傷だったが、手前の椅子で彼女の盾となるべく構えていた柏田の帽子ごと頭部を矢が貫通し、彼は床に倒れていた。
「せ、先生っ!」
由香が駆けより、身をかがめて、いまにも絶えそうな柏田の呼吸音を聞き
「お医者様を!」
と叫んだが、彼の口からはそれを拒む弱々しい声がもれた。
「もう……遅い……。どうやら……矢の……毒が……回り……始めた……ようだ……」
「先生! しっかりして!」
柏田の手を由香が強く握りしめると
「これで……俺の……ノーベル……経済……学賞の……夢は……消えた……。なぜなら……ノーベル……賞を……受賞……できる……のは……生きて……いる……人間……だけ……だから……」
「先生! 生きて! お願い! 生きて!」
「由香……ちゃん……」
自分を呼ぶ、かすれた声を聞きとろうと、由香は耳を柏田の口に近づけた。
「お願い……が……ある……んだ……」
由香の口が大きな声を発した。
「な、なに? 私にお願いって、なに?」
「俺の……遺志を……継いで……制度経済……学を……発展……させて……くれ……ないか……」
「うん! 分かった!」
「そして……いつの……日か……この……俺の……かなえ……られな……かった夢……。光り……輝く……星に……なってくれ……。ストック……ホルム……の……コンサート……ホール……での……ノーベル……経済……学賞……の……授賞式……で……金色に……輝く……星に……なってくれ……」
「うん! 分かった! ストックホルムの輝く星になるよ、私!」
「そのためには……」
「うん! そのためには?」
「もっと……もっと……勉強……しなくちゃ……ダメだ……」
「うん! 分かった! もっともっと勉強する!」
「遊んで……ばかりじゃ……ダメだ」
「うん! 分かった! 遊ぶヒマがあったら勉強する!」
「セックスも……ほどほどに……しないと……ダメだぞ……」
「うん! セックスもほどほどにする!」
ここへ至って、留美と亜理紗の口から、くすくす笑いがもれた。
「えっ? 二人とも、どうして笑ってるんですか? 先生の最期なのに……」
すると傍らの亜理紗が言った。
「由香ちゃん、よーく見てごらんなさい。矢で頭を突き刺されたのに、先生の傷口から一滴の血でも流れてるかしら?」
「そう言えば、たしかに……」
と言いながら、柏田の額に由香が顔を近づけたとき
「俺の跡を継ぎ制度経済学を発展させ、ノーベル経済学賞をとってストックホルムの輝く星になるんだぞ! そのために遊びもセックスも我慢して勉学に励むんだぞ! たったいま約束したばかりなんだからな!」
早口でまくしたてたのち、柏田が上半身を起こし、矢に貫かれた毛皮の帽子を脱いだ。
「いやー。愛用の帽子が身代わりになってくれましたよ。ほんの少しでも下に命中していたら、俺はお陀仏だったでしょうね」
それを受け、留美が言った。
「ソースタイン・ヴェブレンが守ってくれたのかもしれないわね」
緊張から解き放たれた由香は、涙がとめどもなくあふれ出るのも構わず、柏田に抱きついた。
四人の隊員たちが警察車両に乗せられていくのを、ハマーの助手席で眺めながら、石ヶ崎は信じられないという表情になっていた。
「これは、どういうことなんだろうね、オッシー」
と、運転席の押村に訊ねると
「これは、残念ながら、我々の襲撃作戦が失敗したということのようです」
との答を返してきた。さらに双眼鏡を覗きながら
「あちらの十階の窓をご覧ください。男が一人、女が三人、こちらを見下ろしています。女の中の一人は、大隈大学総長の上条留美であることが確認できます」
と言い、石ヶ崎に双眼鏡を手渡した。
「あんな連中に、うちの誇る精鋭部隊が負けたなんて、とても信じられないんだけどね、オッシー」
双眼鏡を覗きながら、石ヶ崎が言った。すると押村は
「あれはまだ前任の鳥飼事務長のときのことだっだそうなのですが、うちの殺し屋の一人『道化師』という者が、上条留美の女性秘書を片づけようとして、逆に病院送りにされてしまったという話を聞いたことがあります。もしかすると、その秘書があの中にいるのかもしれません」
と話した。
「あっ、思いだした。名前は忘れたが、たしか究心館空手の五段ということだった。うーむ。そんな使い手がいるのを覚えておったなら、迷わず銃撃作戦を採ったものを。ワシとしたことが、誠にウカツであったわい……」
石ヶ崎の沈んだ声に
「戦に運不運はつきものです。理事長、ここはひとまず、さいたまへ取って返し、足山幹事長、牛坂大隈大学部長、それに江指学長を含めた五人組で作戦会議を設け、こんどこそ一撃必殺の攻撃態勢を構築いたしましょう」
慰め顔で押村が応じると
「うん、そうだね。捲土重来だ。よし。ここを去る前に、もういちどあの連中の顔を見て脳裏に焼きつけておこう」
そう言って再び双眼鏡を覗いた石ヶ崎が
「あっ!」
と声を上げた。
「どうされました?」
「あの中の小娘が、ワシに向かってアッカンベーをしやがった!」
「アッカンベーの一つや二つ、どうでもよいではありませんか。さあ、出発しますよ」
「ならぬ! いやしくも晴道学園大の理事長たるこのワシを愚弄する者は、たとえ小娘と言えども生かしておくわけにはいかぬ! 女総長と合わせて首ふたつ、これから取ってくるから待っておれ!」
そうわめきながら石ヶ崎が助手席のドアを開けようとすると
「ほんとにバカだな……。そんな格好して旅館に入れてくれるはずないだろ……。しかも、あんな騒ぎがあったあとで……」
と、押村が小声でひとりごちた。すると
「バカだと」
石ヶ崎の顔がこちらを向いた。
「いえ、理事長に向かってアッカンベーをするようなバカ者の首を必ず取ってきてくださいと申し上げたのです」
あわてて返答する押村に
「あいにく、ワシは耳がいい。ワシのことをバカだと言ったのが、よーく聞こえたぞ」
「そ、空耳です。理事長、いまのはきっと空耳ですっ」
「押村。実を言うと、ワシはおまえのことが好きではない。江指といっしょに『あ行五人組』を完成させる者ということで採用してはやったが、足山アッシーや牛坂ウッシーと違って、おまえも江指もワシの幼なじみではない。少年時代の幸せな記憶を共有しているわけでもない。言わば、赤の他人だ。他人の首なら、たとえ刎ねても心はちっとも痛まない。さあ来い。まずはおまえの首からだ」
そう言うと、石ヶ崎は押村の襟首をつかみ、ものすごい力で助手席のドアから外へ引っ張りだした。
「許してください……。どうぞお許しを……」
豪雨と稲妻の中、路上にひざまずいて命乞いする押村に向かい、石ヶ崎は愛刀の鬼神大王波平行安を引きぬき、大上段に振りかぶった。次の瞬間、落ちたのは押村の首ではなく雷だった。刀を伝って石ヶ崎の体内を流れた大電流は、この男を即死させ、木製の甲冑に覆われた巨体は路上に仰向けに倒れた。
「ひいーっ、ひいーっ、ひいーっ」
死への恐怖と、死を見た恐怖で頭の中が混乱した押村は、路上に尻をつけたまま両手だけを交互に動かして後ずさり、ようやく車のドアハンドルをつかむことができた。そうして数分後、運転席に座り、シートベルトを装着し、エンジンをかけた押村は、やがて現場から走り去っていった。
一部始終を見届けていた四人は、重苦しい空気の中にいた。
「亜理紗ちゃん、悪いけど、また警察に連絡してちょうだい」
と指示したあと
「大隈大は偏差値でトップの座に返り咲くためにノーベル経済学賞を利用しようとしている。晴道学園大は偏差値の最下位から抜け出すために我々の論文を利用しようとした。考えてみたら、どっちもどっち、なのかもしれないわね」
留美がそう言って、ため息をついた。
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