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小説「ノーベル賞を取りなさい」第4話

あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。




「先生って、セックスするときも帽子をかぶったままなのね」
 新宿駅南口から近い「ホテルロイヤル・グランドビュー」の一室。大きなベッドに裸で寝そべり、戯れながら、由香が柏田に言った。
 あれから居酒屋を出た二人は、ごく自然にこのホテル内のバーに入り、ごく自然に客室に移動して愛しあったのだった。半年前に別れた同い年の元カレにはまるでなかった、さりげない大人の巧技に操られ、気づいたときには柏田に抱かれていた自分。まだ一度しか講義を受けていないのに、もうこの人を好きになってしまった。
「返事をしないのなら、この帽子、脱がしちゃうぞ」
 そう言ってアライグマの尻尾を由香がつかむと
「おいおい、やめてくれよ」
 柏田がようやく口を開き
「これをかぶっている限り、俺はヴェブレンでいられる。脱いじゃうと、ただの五十男だ」
 と言い添えたので、くすくす笑いながら由香は尻尾から手を放すと、柏田の腕を枕にしてぴったりと体を寄せた。
「ねえ、先生……」
「ん……?」
「教科書の『有閑階級の理論』、最後まで読み通したんだけど」
「ほう」
「すっごく面白いのに、あっちこっち読みづらいのは、なぜ?」
 それを聞き、柏田は満足そうに言った。
「やっぱりね」
「え……?」
「カイジュウに襲われたか、由香ちゃんも」
「怪獣? ゴジラとか?」
「日へんに毎日の毎、それに渋谷の渋。この二文字熟語『晦渋』を『カイジュウ』と読むんだ。すなわち『言葉や文章が難しく意味が分かりにくいこと』。ヴェブレンは、すごくひねくれた言葉の使い方で読者を動揺させるのが好きだったみたいだね」
「ふつうに読みやすく書けば、内容の面白さがもっとよく伝わると思うんだけど」
「まあ、そうかもしれない。でも俺みたいなひねくれ者は、ヴェブレンのそういうところにも共感しちゃうんだな。もう一回読もうと思ったら、こんどはじっくりと時間をかけて文字を追ってごらん。そうすれば、もっと深い満足感を味わえるはずだから」
 柏田はそう話し
「でも、ヴェブレンを読んだって、就活の役には立たないけどね」
 と言葉を継いだ。
すると由香は柏田の腕枕から身を起こし
「私、就職はしません」
 と、きっぱりした口調で言った。
 その発言に、柏田もまた半身を起こし
「こりゃまた、びっくり。名門大隈大の政経で学び、ミス大隈にも選ばれたほどの才色兼備の由香ちゃんなら、損保でも商社でも引く手あまたでしょう。それとも、海外留学でも考えてるとか?」
 と訊くと、由香は柏田のほうへ向き直り、彼の目をじっと見つめて口を開いた。
「私を先生の研究室に入れてください。そしてノーベル経済学賞をとるお手伝いをさせてください」
「ええっ。それ、極秘事項のはずなんだけど……」
 驚き顔の柏田に
「先日のゼミで、中川先生がしゃべりまくっていましたよ。福沢大を偏差値で追いぬくための『SHIGAKU‐TOP』プロジェクトの最初の施策として、あのアライグマ男がノーベル経済学賞を狙うんだけど、そんなの絶対に無理だって」
 由香がそう教えた。
「困った人だなあ、中川さんは。あ、そうか。由香ちゃん、俺の研究室には入れないよ。だって、すでに中川さんのゼミ生だもの」
「じゃあ卒業して大学院に進んでから柏田先生の研究生になります。それまでは忍びの活動員として。それなら問題ないでしょ」
「うーん……」
「あ、そうそう。昨日、大学の図書館で調べたんですよ」
 そう言うと由香は立ちあがり、素裸のままベッドから降り、デスクの上に置いたバッグから書類を取りだして戻ってきた。そして
「過去にノーベル経済学賞を受賞した制度経済学者に関する調査結果。一九九三年にダグラス・ノースおよびロバート・フォーゲルの二人が、二〇〇九年にオリバー・ウィリアムソンおよびエリノア・オストロムの二人が受賞しています。四人ともアメリカ人です」
 図書館資料を読みあさり、ワードで整理した報告書の要点を一気に読みあげると、由香は自慢げな顔を柏田に向けた。
「どうもありがとう。その熱意に打たれた俺は、由香ちゃんをノーベル賞獲得チームの忍びの活動員『くノ一お由香』に任命します」
「やったーっ」
「でもね。せっかく調べてくれたんだけど、それらの四人は『新』制度経済学の人たちで、俺のは『旧』制度経済学。名前は似てるけど、中身はかなり違うんだ。その辺もこれから勉強していこうね」
 そう言うと柏田は、残念そうな由香を見て、にこっと笑った。
 
              

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