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将棋小説「三と三」・第23話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 調子が戻ってきた。
 阪田の教えを受けてからは、少しずつではあるが、以前の自分の将棋に近づいてきていることを幸三は感じていた。
 それは成績にも示された。あの四連敗の後は、二連勝。次に一つ負けたが、それから三連勝。復帰後の星を、五勝五敗の五分に戻していた。
 昭和十八年の春がきて、二十五歳。段位はまだ六段のままだが、出世の機会を窺う幸三は、ある棋戦に狙いを定めていた。
 それは、三年前に始まった「昭和番付編成将棋」というものだ。相撲の番付にならい、横綱、大関、関脇、小結、前頭何枚目というふうに、東は関東の棋士に、西は関西の棋士に、成績に応じたランキングを与える趣向なのだが、これまでの棋戦には見られなかった画期的な方式が話題を呼んでいた。
 それが「四段以上総平手」というルールだ。対局する者の段位に応じて上位者が駒を落とすという、江戸時代からの伝統を破って、すべての対局が平手戦で行なわれるこの棋戦では、段位よりも実力がモノを言った。力の衰えた高齢棋士には厳しく、伸び盛りの若手棋士には嬉しい結果に終わる勝負が、しばしば見られたのだ。
 自身が軍隊に取られた翌年から始まった棋戦なので、幸三にとっては初めての参加になるが、将棋さえ完全に復調すれば、西の横綱に勝ち進む自信はある。
 そして順当にいけば、東の横綱に勝ち上がってくるのは、木村名人だろう。そうなれば、東西の横綱同士による決勝戦で、彼と対局ができる。それも平手の将棋で。
 四年前の十一月に木村に勝ったとは言え、あれは香車を落とされての対局だった。しかも社交クラブの連合会が主催した、席上手合いに過ぎなかった。
 しかし昭和番付編成将棋は、れっきとした公式戦だ。その決勝の舞台で、平手で勝負をし、木村を倒しさえすれば、この升田こそが実力日本一の棋士なのだと満天下に知らしめることができる。それは、名人位奪取への大きな弾みとなるに違いない。
 若子からの手紙の、結びの文言を、幸三は折にふれ心の中で読み返していた。「木村対升田。次の対戦では、いったいどちらに軍配が上がることでしょう。日本全国の升田応援団の一員として、幸三さんの勇姿が見られる日を楽しみにしております」。
 そうだとも、若子さん。貴女を想う男は、貴女の兄よりも、ずっとずっと強いのだ。
 幸三は指し続けた。阪田の教えの通りに、一手一手、じっくりと考えながら、将棋を指し続けた。
老師の背後で四股を踏んでいた巨体の力士が、今や自分の後ろにどっしりと構え、幸三の指し手に強い力を伝えてくれていた。
 春から夏にかけての対局を、五勝一敗。さらには夏場の対局も、五勝一敗。都合十勝二敗の成績で乗りきって、幸三は第四期昭和番付編成将棋・西の横綱の座に勝ち上がるとともに、七段への昇段を確実なものにした。

「マスやん、ようやった!」
 阪田が、声を張り上げた。
「復帰後四連敗で、どないなるんやろかと心配してたのに、以前の勢いを取り戻して、西の横綱! しかも七段に昇段が内定! さすがは、僕らの誇る升田幸三君や!」
 負けじと谷ヶ崎も、野太い声に力をこめた。
 八月も下旬に差しかかろうという、その日。お乳の家は、お祝い気分で満たされていた。
「ありがとうございます。これもひとえに、さんきい先生、谷ヶ崎社長、それに小松山関のおかげです」
 幸三が礼を述べると、
「ほほう、小松山はんまで応援してくれてはったんか。せやったら百人力だんな。えらい力で考え抜いて、一番一番、立派な将棋を、よう指した。新戦法を考え出して木村に勝ったあのマスやんに、よう戻った。もう大丈夫や。わての教えることは、もうおまへん」
 微笑みながら、阪田は言った。
「その木村が、予想通り、東の横綱に勝ち上がったけど、升田君、二十日に行なわれる決勝戦、どないな将棋で戦うつもりや。こんどは香落ちやのうて平手やから、あの戦法はもう使えんやろ」
 谷ヶ崎の問いに、幸三は答えた。
「はい。木村との香落戦に、私は新戦法で勝ちました。それならば平手の勝負にも、私は私らしく、新戦法で臨もうと思っています。その新戦法は、すでに考案済みです」
「ど、どないな新戦法や、それは」
「江戸の昔から伝わる戦法に、私は独自の工夫を盛りこみました。言うなれば、温故知新の戦法です」
「江戸の戦法? 何だす、それは」
「石田流です」
「何やて! 石田流やて! 角道も止めずに、飛車を三間に振って奇襲をかける、あの石田流やて! あないな素人騙しの縁台将棋の戦法が、百戦錬磨の木村に通用するはずおまへんやろ! 升田君、気は確かか!」
声を荒らげる谷ヶ崎に、静かな口調で幸三は応じた。
「もちろん、そのままの奇襲戦法として使うのではありませんよ。江戸時代の盲人棋客、石田検校の編み出したこの戦法に、私が凝らした創意は、急戦と持久戦のどちらにおいても、自由自在に戦えるようにしたことです。つまり、升田が現代将棋の命を吹きこんだ、石田流。升田式石田流とでも呼んでください」
「升田式石田流……」
 溜め息のような声を谷ヶ崎がもらしたそのとき、阪田の口から、カン高い笑い声が飛び出した。
「ひゃっひゃっひゃーっ。名人に向こうて、石田流やて、おもろいなあー、ひゃっひゃっひゃーっ。縁台将棋やて、愉快やなあー、ひゃっひゃっひゃーっ。木村には『石田撃退法』という著書がある。それを相手に『石田撃退法のそのまた撃退法』をぶつけるんやから、木村の奴、怒るやろなあー。あの偉ぶった顔に青筋立てて、カンカンに怒るやろなあー、ひゃっひゃっひゃーっ、ひゃっひゃっひゃーっ」
 阪田の笑い声が止むのを待って、幸三が言った。
「さんきい先生、その木村が、約束をしてくれました」
「約束?」
「はい。この対局に私が勝てば、六段から二段とびで、八段に昇段させると」
「ほ、ほんまか!」
「ええ。昨日、将棋大成会の大阪支部を通じて連絡がありました。それによると、私はすでに七段への昇段が決まっていますから、七段が名人との公式戦に平手で勝てば、その実力は確かに八段であることを認める、と」
「やったなー、升田君! 八段になったら、念願の名人挑戦者決定リーグに参戦や! それを勝ち抜いて、七番勝負にも勝って、いよいよ升田新名人の誕生や!」
 谷ヶ崎が叫ぶような声を出し、
「マスやん、絶対に勝て」
 阪田がピシャリと言った。
 幸三は答えた。
「はい。絶対に勝って、八段になってみせます。二十日の対局は、大阪で行なわれます。場所は、北区菅原町の中村邸。決勝戦にふさわしい豪邸です。別室で大盤中継もやるでしょうから、ぜひお越しください」


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