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小説「ころがる彼女」・第20話

 邦春は焦っていた。
 昨日、引っ越し先の物件探しを急ぐよう弓子に送信したところ、返ってきたのが、このメールだったからだ。
「ベスちゃんの具合がそんなに悪いだなんて、ただもう驚き、悲しみが募るばかりです。一刻も早く新しい住まいを探さなければならないというのに、実は私、北海道にいるのです。今日から来週の日曜日まで、お盆休みでしょ。それで、主人の実家のある札幌に来ているの。私は行きたくないから一人で帰省してとお願いしたのだけど。いや、それはできない。一人にしておくと、またご近所に迷惑をかける行為に及ぶかもしれないからって。それで仕方なく同行することにしたの。こんな大事な時期に、ほんとうにごめんなさい。ベスちゃんの体調が、少しでも良くなりますよう、心よりお祈りしています」
 ベスは、ずっとベッドのなか。弓子は、はるか札幌の地。邦春は自分が急にひとりぼっちになったような孤独感に襲われた。
 時刻は午前十時半。居間のソファーに寝そべると、ふと、名刺のことを思い出した。昨日、動物病院の待合室で、コーギーの飼い主からもらった、あの名刺だ。
 テーブルの上に置いてある、その紙片を、邦春は手に取り、読み返してみた。「便利屋チューマル。宙丸忠男。どんなことでもお気軽にご相談ください」。
 これを差し出したとき、彼はこう言ったっけ。「何かお困りごとのあるときは、私と数多くのパートナーたちが、きっとお役に立って見せます」と。
 黒縁の眼鏡から覗く目には、真剣味が感じられた。伊達や酔狂で便利屋という職業を名乗っている風には見えなかった。
「溺れる者は……」
 そう言いながら、邦春はソファーから体を起こした。
「いや、船乗りが溺れるわけにはいかないが、すでに藁をつかんでしまった。名刺という藁を。ならば……」
 スマホを手に取ると、彼はダイヤルキーを押していった。
 しばらく呼び出し音が鳴ったのち、男の声がした。
「はい。便利屋チューマルです」
「あのう、私、清水と申します。動物病院の待合室でお会いした、ウエスティーの飼い主です」
「ああ、どうも、どうも。ベスちゃんのパパですね。引っ越しのことでお悩みのようでしたが、その件でのご相談ですか?」
「いえ。引っ越しは、まだ少し先のことで……。実は、家を探しておりまして。いま住んでいる家を売って、新たに家を買おうと思っているんです……」
「なるほど、なるほど」
 宙丸は相づちを打ち
「お急ぎですか?」
 と問うた。
「ええ。とても急いでいます。ベスの体がまだ動けるうちに、新しい住まいに引っ越さなければならないので」
「なるほど。了解しました。それでは清水さん、ご住所とお電話番号を教えていただけますか」
 邦春がそれらを告げると、
「ありがとうございます。では、一度お電話を切ってお待ちください。こちらから改めてかけ直させていただきますので」
 宙丸はそう言った。
 そして数分後、スマホが鳴り、邦春は出た。
「宙丸です。たった今、私どものパートナーと連絡が取れました。さっそく本日の午後にでもご自宅へお伺いしたいとのことですが、
清水さん、ご都合はいかがですか?」
「ええ、何時でも構いません」
「了解しました。それでは午後二時から三時くらいの間に、お伺いさせていただきます。経験豊かなスペシャリストですので、どんなことでも、お気軽にご相談なさってくださいね」

 午後二時過ぎ、インターホンが鳴った。通話ボタンを押して応じると、
「宙丸さんからご紹介いただいた、藤川と申します」
 という声。
 ドアを開けると、男が一人立っていた。七十代の半ばくらいだろうか、痩せて、つるつるの禿頭。両の目は、ぎょろりと大きい。
「どうぞお入りください」
 邦春の言葉に
「いえ、ちょっと家の周りを一巡りしてから」
 藤川はそう返し、門扉の内側を周っていった。
 そうして三十分くらいが経ったころ、再びインターホンが鳴ったのでドアを開けると、こんどは
「家のなかも見させてもらいます」
 と言いながら、彼は階段を上がっていった。
 やがて二階から降りてきて、寝室、バスルーム、トイレ、キッチ
ンなどにも視線を注いだのち、ようやく居間へやってきて、邦春に
名刺を差し出した。受け取って、見ると、

地元不動産
代表取締役 藤川冨寿

と書いてあった。
「ふじかわとみひさ、さん……?」
邦春が声にすると、
「いえ、とみじゅと読むのです」
と彼は言い、ソファーに腰を下ろした。
 そして、邦春が運んできた冷たい麦茶をひと啜りしたのち、こう話した。
「でも、どちらにしても大差はありません。子供のころから、ずっと『冨ちゃん』と呼ばれてきましたからね。五年前にお亡くなりになった、あなたの奥さまにも」
「妻に?」
 驚きの声を邦春が出すと、
「ええ。敬子さん。旧姓・広瀬敬子さんとは幼馴染でしてね。当時は私もこの近くに住んでおり、お互いを冨ちゃん、敬ちゃんと呼び交わす間柄でした。小学校も中学校もいっしょです。いつしか私は敬ちゃんに淡い恋心を抱いていったのですが、もちろん片思いでした。そして敬ちゃんは電報電話局に就職し、集団お見合い会で知り合った九歳年上の無線技術士と結婚をしました」
 藤川はそう言うと、麦茶をもうひと啜りした。それからまた口を開いた。
「敬ちゃんのご主人は、やがて高給取りの船舶通信士になり、この家を建てました。古くなっていた敬ちゃんの実家を、新しく建て替えたのです。そのときの敬ちゃん、それにご両親の喜びようといったらなかった。冨ちゃんのおかげで、こんな立派な家が建った、ありがとうありがとうって。清水さん、もうお忘れになったかもしれませんが、あのときの建築業者をご紹介したのは、実はこの私だったのです」
「そうだったのですか。あの業者さんなら、ちゃんと覚えていますよ。リフォームのときもお世話になりました。そうですか、藤川さんのご紹介だったのですね」
 懐かしそうに顔をほころばせて、邦春は応じた。
「さてさて、清水さん。新しい住まいへ移るために、この家をいくらで売るおつもりですか?」
 いよいよ本題に入るのだなと思い、邦春は正直に答えた。
「ネットで調べたのですが、土地の価格が一千万円くらい。上物の解体撤去費用が百五十万円くらい。ですので、売値は八百五十万円くらいになるのかなと考えています」
 それを聞いた藤川は
「まあ、それが相場でしょうね」
 と言い、
「しかし、相場は相場、藤川は藤川です。この家、一千万円で買いましょう」
 そう言葉を継いだ。
「えっ」
 邦春は驚いた。
「上物の解体撤去費用は要らないのですか?」
 すると藤井は
「上物もいっしょに買わせていただきます。外側と内側から、ざっと拝見したのですが、まだまだ建物はしっかりしているようです。
 これなら貸家としても使えそうだし、なんなら私の事務所にしたっていい。実は私、この家に愛着のようなものを感じているのです。もう少し長生きをしてほしかったけど、敬ちゃん、ご両親、それにご子息たちを幸せにしてくださったことに、私なりの感謝の気持ちをこめての一千万円です」
 と、大きな目に力をこめて言った。
「あ、ありがとうございます!」
 邦春は藤川の両手を強く握りしめた。
「それと、どこへ越すかの問題が残っていましたよね」
 藤川の言葉に、
「そうなんです。犬がまだ元気なうちに、中古の戸建てかマンションへ引っ越したいのです。この家を買っていただく一千万円を元手にするとなると、新しい住まいの取得にかけられるお金は、諸費用や引っ越し代を除くと、九百万円弱。そんな物件が、藤川さん、近場にあるでしょうか?」
 邦春はそう訊いた。
「今現在、私の知るかぎり、そういう物件はありませんね。そもそもお盆休みが始まったばかりですから、新しい物件は市場に出回っておりません。狙い目は、九月です。サラリーマンたちに十月の人事異動の内示が出ますから、転勤に備え家を売りに出す。それらのなかには、安くてもいいから早く処分してしまいたいという人もいるはずです。私もできるかぎり情報を入手しますから、清水さんも物件情報には、絶えず目を光らせてください。いいですか、九月が勝負ですよ」
 藤川はそう答え、残りの麦茶を飲みほした。


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