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小説「ころがる彼女」・第29話

 十月三十一日、木曜日。
 邦春とベスの、引っ越しの日がやってきた。
 午前十時に、宙丸の運転する二トントラックが到着し、いずれも屈強なスタッフたちが、家のなかへ入ってきた。
 すでに荷造りは終えており、冷蔵庫や洗濯機の水抜きなども済ませてある。段ボール箱が次々とトラックの荷台に運ばれるのと並行して、居間と寝室に一台ずつ設置されたエアコンが取り外されていく。それらは、新居に二つあるバルコニーに面した部屋に、のちほど取り付けられるのだ。
 作業が順調に進むなか、藤川が姿を現した。
「いよいよ新生活の始まりですね。何もかも上手く進んで、ほんとうに良かった」
 そう言う彼に、
「きょうを迎えられたのも、藤川さんのおかげですよ。残していくこの家を、どうぞよろしくお願いします」
 邦春は頭を下げ、礼を述べた。
 確かに、何もかも上手く進んでいる。だが、弓子が姿を見せないのを、邦春は少し不満に思った。
 彼女自身の引っ越しは、まだ一か月先だ。けれども、きょう自分とベスがこの家を出ていくことを、彼女は知っている。向かいの家から現れて、気をつけてね、の一言くらい、かけてくれてもいいだろうに。
 いや。邦春は、その思いを打ち消した。弓子は弓子で、何か外せない用事でもあるのだろう。それに近所の目もあることだし。脱出作戦は、念には念を入れて実行しなければならないのだ。
 そのとき、宙丸の声がした。
「では、清水さんとベスちゃん、車で先に出発してください。われわれは後から追いかけますから」

 邦春の軽ワゴンが走り去り、二トントラックもそれに続いていったのを、弓子は自宅の一階で耳を澄まして聞いていた。
 顔を見せ、挨拶をしなかったのは申し訳なかったが、これで静かな環境が戻ってきたのは、ありがたかった。
 きょうは夫も出張で、家にいるのは自分ひとり。思う存分、回文作りに専念できるのだ。
 天国にいる、たくさんのお友達の声に、褒められたり、励まされたりしながら、心ゆくまで幸せな時間に浸れるのだ。
 今や弓子の体調は、最高の躁状態に達していた。サイコロを振るたびに、何度も続けて6の目が出る。そういう病勢だった。
 二階の自室に入ると、席に着き、パソコンの電源を入れ、弓子は記念日ガイドブックを手に取った。

 きょう十二月三十一日は「大晦日」ですね。良い新年を迎えるために、江戸時代から続いている習慣が、年越しそばを食べること。その由来には諸説ありますが、江戸の金細工職人が、仕事場に飛び散った金粉を、そば粉を練った団子で集めたというのもそのひとつ。そばは、金が集まる、縁起の良い食べ物なのですね。では回文を。
 
 食おうかね。
 縁起かついで、年越しと。
 で、いつか、金へ。
 願う、億。

 [くおうかね えんぎかついで としこしと で いつか きんへ(え)ねがう おく]

 縁起物ゆえ、年越しそばを食べ残したりすると金運に恵まれないなどと言われますが、何はともあれ健康であることが、いちばん。皆さま、良いお年をお迎えください!

「イイネ!」
「イイネ!」
「超イイネ!」
 
 弓子のブログのフォロワー数は、いつの間にか十万人を超えていた。だからこそ、これからも努力して、天国のみんなの期待に応え続けなければならないのだ。

 皆さま、明けましておめでとうございます。きょう一月一日は、「元日」ですね。年の初めを祝う日として、一九四八(昭和二三)年に制定されました。では回文を。

 お祝いさ。
 元旦の酒、今朝、飲んだんか。
 幸いを。

 [おいわいさ がんたんのさけ けさ のんだんか さいわいを]

 令和も、二年目を迎えましたね。二〇二〇年が皆さまにとって、素晴らしい年になりますように。本年も、どうぞよろしく、お願い申し上げます。

「イイネ!」
「超イイネ!」
「超イイネ!」

 きょう一月九日は「とんちの日」です。「いっ(一)きゅう(九)」の語呂合わせから、とんちで有名な一休さんにちなんで、機知に富んだクイズを出し合う日なのだとか。一休さんと言えば、やっぱりこのお話ですよね。では回文を。

「橋渡るな」に、
「きちんと中行く」と。
 得意かな、とんち。
 気になるだ、ワシは。

 [はしわたるなに きちんとなかいくと とくいかな とんち きになるだ わしは]

 端(はし)ではなく、真ん中を渡っていったのですね。とんちを発揮すべき場面では、即、やる気になる一休さんなのでした。

「超イイネ!」
「超イイネ!」
「超イイネ!」

 きょう一月十日は「かんぴょうの日」です。漢字で書くと、干瓢。この「干」の字を分解すると「一」と「十」になることから制定されたそうですよ。水で戻して煮て、海苔で巻くと、お馴染みのかんぴょう巻きの出来上がり。では回文を。

 煮てね、巻いていく。
 長いよ、黒く。
 良いかな? 食いて。
 今ね、手に。
 
 [にてね まいていく ながいよ くろく よいかな くいて いまね てに]

「かんぴょうの日」を制定したのは、栃木県です。約三百年の歴史を持つかんぴょう作りは、現在では日本の総生産量のほとんどすべてを占めているそうですよ。

「超イイネ!」
「超イイネ!」
「超超イイネ!」

 きょう一月二十一日は「ライバルが手を結ぶ日」です。一八六六(慶応二)年のこの日、薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎(木戸孝允)ら敵対する者同士が、土佐の坂本龍馬らの仲介により京都で会見。倒幕のために薩長同盟が結ばれました。では回文を。

 西郷さん、桂さん。
 転換点さ。楽観さ。
 動! いざ!

 [さいごうさん かつらさん てんかんてんさ らっかんさ うご いざ]

 薩摩と長州の同盟の結成こそが、幕府を倒し、日本の夜明けへの歴史の転換点になるぜよ! 心をポジティブにして、いざ、動くぜよ! それにしても、面白い記念日があるものですね。

「超イイネ!」
「超超イイネ!」
「超超イイネ!」

 きょう一月二十三日は「ワン・ツー・スリーの日」です。掛け声の「ワン(一)ツー(二)スリー(三)」から、人生において目標を掲げ、ジャンプする意欲を持とうという趣旨で制定された日です。では回文を。

 大切だ。
 やる気で、向かって、跳べ、と。
 で、掴む。
 できるや! 達成だ!

 [たいせつだ やるきで むかって とべと で つかむ できるや たっせいだ]

 新しく何かに挑戦しようと、心に決める日。もちろん、目標は、人それぞれです。思いっきりジャンプして、ぜひ達成しましょう!

「超超イイネ!」
「超超イイネ!」
「超超イイネ!」

 きょう一月二十七日は「求婚の日」です。一八八三(明治一六)年のこの日に、日本初の求婚広告が新聞に掲載されたことにちなんで制定されました。広告を出したのはNさんという男性で、内容は「先ごろ女房と離婚したために生活に不自由しています。十七から二十五歳くらいの年齢で、お嫁さんになってくれる方はご連絡ください。貧富は問いません」というものでした。では回文を。

 妻と別れた。まいった。
 いざ行けや、新聞社。
 掲載、経つ今。
 誰かは、と待つ。

 [つまとわかれた まいった いざいけや しんぶんしゃ けいさい たついま だれかは(わ)とまつ]

 広告は伊勢新聞と三重日報の二紙に載りました。さて、結果は? ジャーン! おめでとうございます、Nさん。ご応募くださった、十九歳の女性と、めでたくゴールイン。こんどこそ、お幸せにね。

「超超イイネ!」
「超超イイネ!」
「超超超イイネ!」

 きょう二月二日は「人事の日」です。「じ(二)んじ(二)」の語呂合わせから、人事労務関連のポータルサイトの運営会社が制定しました。全国の企業の人事担当者が垣根を越えてつながり、雇用・人材育成・組織開発などについて共に考えていくことが目的だそうです。業務範囲の広いお仕事ですが、採用をお題に、では回文を。

 おかしいな。
 内定、続々、辞退だし。
 くそ! くそ! 痛いな。
 無いし、顔。

 [おかしいな ないてい ぞくぞく じたいだし くそ くそ いていな ないし かお]

 こちら、新卒採用の担当者さん。内定式を行なう予定だというのに、辞退につぐ辞退で、学生たちの顔は無し。これじゃあ、上司に合わせる顔も無し。

「超超イイネ!」
「超超超イイネ!」
「超超超イイネ!」

 きょう二月七日は「ニキビに悩まないデー」です。ニキビ対策や予防のスキンケア製品を販売する会社が制定しました。語呂合わせも、ずばり「ニキビに(二)悩まない(七)」。では回文を。

 夜明けの肌。
 弱るな、ニキビ。
 気になるわよ。
 打破のケアよ!

 [よあけのはだ よわるなにきび きになるわよ だはのけあよ]

 ニキビに悩むすべての男女の助けになりたい。そういう思いをこめた記念日だそうです。思春期のニキビも、大人のニキビも、しっかりと薬用スキンケアしましょう。

「超超超イイネ!」
「超超超イイネ!」
「超超超イイネ!」

 きょう二月十四日は「煮干しの日」です。「に(二)ぼ(1←棒)し(四)」の語呂合わせから、全国煮干協会が制定しました。チョコの代わりに煮干しを贈るバレンタインデー作戦がうまくいった事例をご紹介しましょう。では回文を。

 好きの告白は、
 イワシだったね。
 ねだったし、ワイ。
 ハグハグ! 
 このキス!

 [すきのこくはくは いわしだったね ねだったし わい はぐはぐ このきす]
 
 煮干しで恋を打ち明けられた、あの日。ワイは、いっぺんにオマエのことが好きになってもうたんや。とっさにハグをし、キスをしてもうたんは、カタクチイワシのように、かたくちかった愛の証なんや。てな感じで、作戦成功。鰯で鱚が釣れちゃいましたね。

「超超超イイネ!」
「超超超イイネ!」
「超超超超イイネ!」

 きょう二月二十三日は「富士山の日」です。「ふ(二)じ(二)さん(三)」の語呂合わせと、この時季に富士山がよく望めることから静岡県・山梨県などが制定したそうです。では回文を。

 あな、高い! 下は、波さ。
 富士、堂々と、自負さ。
 皆、私以下だなあ。

 [あな たかい したは(わ)なみさ ふじ どうどうと じふさみな わたしいかだなあ]

 頂上より眺めれば、眼下は雲海の波。国内に比類なき高さ、世界に冠たる名高さ。「富士山のように皆なろう(三七七六m)」と子供のころ教わったものですが、たどり来て、いまだ山麓。ですねえ。

「超超超イイネ!」
「超超超超イイネ!」
「超超超超イイネ!」

 きょう二月二十六日は「脱出の日」です。一八一五(文化一二)年のこの日、地中海のエルバ島に流されていた、元フランスの皇帝ナポレオンが、権力の座への返り咲きを狙って島を脱出しました。では回文を。

 立つとも、今!
 手で春へと、ナポレオン。
「俺、ほな」と
 エルバ出て、舞い戻った。

 [たつとも いま てではるへ(え)と なぽれおん おれ ほなと えるばでて まいもどった]

 ルイ一八世が即位し王政復古となったフランスでは、国民の不満が噴出し、混乱が続いていました。そこへ、ナポレオンの再登場です。帰ってきた英雄は、たちまち熱狂的な支持を得て、皇帝に復位しました。しかし、彼の二度目の春は長続きしませんでした。ワーテルローにおけるイギリス・プロイセン軍との戦いに敗れたナポレオンは、こんどは脱出の不可能な大西洋の孤島セントヘレナに流され、そこで一生を終えたのでした。

「超超超超イイネ!」
「超超超超イイネ!」
「超超超超イイネ!」

 あ、そうだ。「脱出の日」で思い出したけど、弓子、お友達の皆さんに言っておかなければならないことがあります。あと一か月経ったら、私もこの街を脱出して、新しい街に移り住むことになるの。だから皆さんとは、それまでのお付き合いになるけど、私がいなくなっても、悲しんだりしないでね。私も、とても寂しいのだけど、元気にやっていきたいと思います。皆さんのことは、いつまでも、忘れません。

「ダメダネ!」
「ダメダネ!」
「ダメダネ!」

 そんなこと、言わないで。私には、新しい人生があるの。新しい人と、新しい生活をしていくの。

「超ダメダネ!」
「超ダメダネ!」
「超ダメダネ!」

 お願いだから、無理を言わないでね。無理を言って、私を困らせないでね。

「超超ダメダネ!」
「超超ダメダネ!」
「超超ダメダネ!」

 うーん。どう言えば、分かってもらえるのかなあ。皆さんはもう天国にいるけど、私はまだ、こっちの世で生きていかなくてはならないの。

「超超超ダメダネ!」
「超超超ダメダネ!」
「超超超ダメダネ!」

でもね、私もあと何十年かしたら、皆さんのところへ行きますから。そしたらまた、仲良くやりましょうね。

「超超超超ダメダネ!」
「超超超超ダメダネ!」
「超超超超ダメダネ!」

 ほんとうに、ごめんなさい。こんなことになるのだったら、私、回文なんかやるんじゃなかったわ。

「超超超超超ダメダネ!」
「超超超超超ダメダネ!」
「超超超超超ダメダネ!」

 ねえ、お願い。どうしたら許してもらえるのか、私に教えてくださらない?

「コッチヘ来イ!」
「コッチヘ来イ!」
「コッチヘ来イ!」

 えっ。それは不可能。それだけは、できません。お願い。かんべんしてちょうだい。

「コッチヘ脱出シロ!」
「コッチヘ脱出シロ!」
「コッチヘ脱出シロ!」
「コッチヘ脱出シロ!」
「コッチヘ脱出シロ!」

 繰り返し襲いくるシュプレヒコールの衝撃で、弓子の命は彼女の肉体から弾き飛ばされた。
        

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