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将棋小説「三と三」・第34話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 順位戦の残りの対局を五勝一敗で指し終え、合計十二勝二敗の成績で第一位。A級への昇級と八段への昇段を手中に収めた幸三は、意気軒高として奈良へ向かった。木村との五番勝負は、言わば七段時代最後の大仕事だ。必ず全勝して、次なる目標である名人位獲得への大きな弾みにしてみせる。なんと、やり甲斐のある仕事だろう。
 一方の木村もまた、汽車に乗り、奈良を目指していた。乗り換えも含め、十数時間をかけての遠征は、四十一歳の体にかなり応えたが、彼はそれを堪えた。大阪の新聞社が企画した棋戦だけに、どうしても対局場は関西になる。それでも名人である自分が「東京で」と要望すればそうできたはずだが、彼は新聞社の言う通りにした。なぜなら、旅が好きだからである。奈良は二度目だ。古都の風情を感じながら、良い将棋を指してみたい。
 かくて、十二月六日、午前九時。三笠山麓の旅館「武蔵野」内の対局室で、第三局の幕が切って落とされようとしていた。
 記録係は大山康晴六段。順位戦のB級で、十一勝三敗という成績を収め、自分に次ぐ二位の成績で七段への昇段を決めたこの弟弟子が、のちに終生の競争相手となっていくことに、幸三はまだ気づいていない。
 そんなことより、幸三がオヤと思ったのは、木村名人が羽織袴に着替えず、国民服の姿のまま対局室に現れたことだった。
 これは名人が権威という裃をかなぐり捨て、裸一貫の棋士として勝負に臨む覚悟を決めたものと感じられた。こちらも、よほど気合を入れて掛からねばならない。幸三は、じっと集中力を高めた。
 そういう中、大山六段の声が対局の開始を告げた。
「それでは升田七段の先手で始めてください。持ち時間は、各九時間。それを使い切りますと一手六十秒未満で指していただきます。では、よろしくお願いいたします」
 礼を交わしたのち、幸三ビシッと2六歩、飛車先の歩を突いた。続いて木村、バシッと8四歩、同じく飛車先の歩を突いた。
 指し手は進み、それぞれが飛車先の歩を交換し、幸三は2六飛と浮飛車に、木村は8二飛と引飛車に構えた。
前局と同様に相掛かりの戦型だが、先に攻めの動きを見せたのは木村だった。右の銀を6二から7三、8四と積極的に進め、棒銀戦法に出たのだ。
対する幸三は、4六歩から4五歩と伸ばし、飛車の横利きでそれを受ける態勢を取った。
 そこで、午後六時。木村は手を封じた。

 夕食後、両者は記者の取材を受けた。
 まず、升田がこう語った。
「国民服の姿からも窺えるように、今回の対局に臨んで、木村名人は格式とか名誉とかの一切を放擲し、まさに裸の勝負を挑んできました。連続五期在位の不動の名人が一介の棋士に戻り、初心に帰って盤に向かっているのです。これは、なかなかできることではありません。名人なればこその心意気と、感じ入った次第です」
 次に、木村が話した。
「別に、格式や名誉を投げ出したわけではありませんよ。羽織袴で指すのがいいに決まっている。だけどね、夏と違って、冬の着物はかさばっちゃって満員列車の中では持ちきれないんです。国民服で指すことにしたのは、ただそれだけの話。こんど、冬の対局のために羽織袴の一揃いを大阪に預けておこうかな。あっはっはっ」
 自分を馬鹿にするような木村の発言に、幸三の闘志はめらめらと燃えた。

 翌十二月七日午前九時、二日目の対局が始まった。
 木村の封じ手は、6四歩だった。ここは、すぐにでも9五歩から攻めこみたいところなのだが、後で幸三から5五角と、飛車と香車の両取りに打たれる変化があるので、やむを得ずその筋を消して、攻めを待ったのだった。
 この一手に乗じて、幸三は思いきった先攻に出た。3筋と1筋の歩を連続して突き捨て、2四歩、同じく歩、同じく飛車と飛び出したのだ。
 これに対し、木村は2三歩と打った。そうせずに6筋の歩を守って7三銀と引くと、3三に歩を打たれ、同じく金、同じく角成、同じく角、2一飛成の手順で潰されるから、当然の一手だ。
 幸三、木村が封じたばかりの6四の歩をむしり取る、6四飛。飛車成りを防ぐ木村の6三歩に、3四飛と身をかわした。不満のない展開だ。
 木村、角交換から2二銀と上がって守りを強化する。幸三、1三歩と打ちこんで端から攻める。木村、遊んでいる攻めの銀を7三へ引き、防御の態勢。幸三、3五飛と歩を取りながら飛車を一つ引いたのに対し、木村、1三銀と、端に打ちこまれた歩を取り払う。
 ここで幸三、歩を取って、1五の桝目へ飛車をさばいた。それを見て、木村、2八の桝目に角を打ちこんだ。相手の手段を封じようという角。いよいよ勝負所を迎えた。
 幸三の攻めは続く。3三歩と金取りに叩きこみ、木村が2二金とかわすや否や、1二歩と香車取りに叩いた。木村が同じく香と応じると、1一の桝目にできた空間に角を放りこんだ。木村、1四歩と飛車取りに打ったが、幸三、3五飛とかわして好調だ。
 しかし、さすがは名人。木村は3四歩と叩き、同じく飛車と取らせてから1九角成と香車を手に入れた。幸三が下手に攻めると、いつでも3三に香車を打って、飛車を殺すことができるようにしたのである。
 そこで幸三、3七桂と自陣の桂馬の活用を図る。木村が3三桂と相手の攻めの拠点の歩を取って跳ねたのに対して、さらに2五桂と只捨てに跳ねる。木村が同じく桂馬と応じるや、ここぞとばかりに2二角成と金を取り、木村が同じく銀と応じると、すぐさま3二へ王手銀取りの金を打ちこんだ。
 木村、5一へ玉を逃げる。幸三、2二金と銀を取る。木村、さらに6一へ玉を逃げる。幸三、待望の3一飛成が実現して王手をかけた。木村、5一に香車の合駒を打って、それを防いだ。
 このあたり、幸三は幸三で、木村は木村で、それぞれ自分が優勢だと思っている。いよいよ終盤戦に突入し、幸三、4四歩と突いて攻める。それには構わず、木村、3七桂成と銀取りに迫る。幸三、5六銀と逃げる。そこで木村、2五へ自信たっぷりに角を打ったのだが、この手が失着だった。すかさず幸三に3四銀と打たれ、木村の顔色が変わった。角取りと同時に、4三歩成の寄せを見た、厳しい銀打ちだ。
 仕方なく木村、5八角成と、幸三の玉を守る金と角を交換し、それから4四歩と自陣に手を戻したが、時すでに遅く、幸三の勝勢がはっきりした。
 幸三、4二歩と打って、と金攻めを図る。木村、6四桂と打って一矢報いようとしたが、6五銀と逃げられた。木村、2九馬と寄って、なおも6五の銀に狙いをつけたが、6六歩と軽く受けられた。木村、ならば敵玉に迫ろうと、3九馬。幸三、4一歩成と、寄せの 
と金ができ、ついに勝ったと思ったが、この気の緩みが思わぬ事態を招くことになった。
 せめてもの形づくりと、木村が4八馬と王手した一着に対して、6七玉と逃げれば安全勝ちだったのに、うかつにも6八に玉を逃げてしまったのである。そのため5八金と再び王手に打たれ、7七玉と逃げる一手に、5九馬の、またもや王手。やむを得ず6八角と合駒に角を使わされ、とうとう形勢は逆転した。
 その角を6八金と取られ、同じく金に、4九角と寄せの好手を打たれて、幸三の敗勢が明らかになった。だが対局中の本人は、なぜか負ける気がしなかった。ここで7九銀と引いて玉の退路を拓こうとすれば、木村は必ず8八歩と、その退路封鎖の一着を放ってくるに違いない。7五歩と突いてこられたらもう終わりなのだが、木村はそうは指さずに、きっと8八歩と打ってくる。そう確信した。
 幸三は7九銀と引き、木村は8八歩と打った。しめた! と幸三、5一と金と、王手で香車を手に入れ、木村が同じく金と応じるや、入手したばかりの香車を8六の桝目にバッシーンと叩きつけた。
「あああーっ」
 木村の悲鳴が対局場に響きわたった。
 幸三の放った香車は、飛車取りになっている。それを防ぐためには歩の合駒をするしかないのだが、それができないのだ。なぜなら木村はすでに8八歩と、8筋に歩を一つ打っており、もう一つ打つと「二歩」の反則負けになってしまうからである。大逆転に次ぐ、大逆転だった。
 うなだれる木村に、記録係の大山の声が追い打ちをかけた。
「木村名人、持ち時間を使い切りましたので、これより一手六十秒未満で指していただきます。……十秒……二十秒……三十秒……」
 木村にはもう指す手がない。しかし、時間切れの反則負けだけは避けようと、8八に打った歩を、8九歩成と進めた。
 その手に対して、幸三、8二香成と飛車を取った。
「……四十秒……五十秒……」
 大山の秒読みに追われて、木村、その成香を銀で取った。
 幸三は奪い取った飛車を3二の桝目に静かに打ち下ろし、もはや自玉に受けがなくなったことを悟った木村は、投了した。
「まで、百十一手にて升田七段の勝ちでございます」
 大山がそう言い、礼をした。
「君とやると、なぜか見落としをする。闘志に押されるのか……」
 木村が珍しく弱音をもらした。

「ついに三連勝! 我らが升田七段、打倒木村成る!」
 幸三の快挙を報じた新大阪は、前々号、前号にも増して売れまくり、幸三の人気は沸騰した。同紙で行なわれた人気投票において、水泳の古橋廣之進選手に次ぐ第二位に輝くほどだった。
 だがしかし、五番勝負の残り二局を指す気は、もはや幸三にはなくなっていた。そこで体調不良という理由をつけ、第四局と第五局を中止にしてもらうことにした。
 三局戦ってみて実感したのだが、あれほど憎んでいた怨敵、木村義雄の将棋は、すでに全盛期を過ぎていた。頭に目立つ白髪が物語るように、四十一歳という年齢以上に彼の衰えは進み、同情の念を抱かざるを得なかった。この自分が戦争に六年という貴重な歳月を奪われたのと同様に、戦災と困窮は、一人の棋士としての彼の力の充実を、否応なく妨げたのに違いない。
 戦地にあっても、自分には木村義雄という目標があった。けれども木村には、目標とする棋士が誰もいなかったのだ。
 


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