寒風沢と長南家と自分
前回のnoteは400年前に生きた遠い先祖・和泉守さんのことを書きましたが、そもそも寒風沢ってどんなところだったか・・・を説明したいと思います。
寒風澤は江戸時代、東北の玄関口、伊達藩の廻米港として千石船の中継地になってました。当時はさまざまな場所からやってくる船員さんたちを相手に遊郭があったほど栄えた港だったんです。今も島には江戸時代の史跡が所々に残っています。
江戸末期の戊辰戦争時には旧幕府軍の榎本さんや新選組の土方さんたちが浦戸に入港し、壊れた船の修理や補給をしてから函館に旅立ちました。その当時、浦戸で御城米浦役人(ごじょうまいうらやくにん)をしていたのが、高祖父の兄である、十一代目長南清八郎さんでした。この御城米浦役人というのは船の取り締まりや海上事故の処理を行なうお役人で、戊辰戦争時、浦戸に錨を下ろした旧幕府軍のお世話を、清八郎さんはしていました。ちなみに長南家は五代目清八郎さんから十一代目清八郎さんまで御城米浦役人を勤めています。
十一代目清八郎さんは和泉守さんの次男直系でした。直系の長南一族は十一代目長南清八郎さんの一人娘、十二代目清八郎こと、あいさんで絶家しています。
家系図でみると私の高祖父(祖父の祖父)の兄が十一代目清八郎さんで、娘のあいさんは姪っ子にあたります。十一代目が亡くなった時に、私の祖父がいた福田町のもろや(酒屋)を訪ねてきて、十一代目の遺品を預かってもらいたかったそうなのです。(長南氏の研究より引用)
しかし高祖父は「自分で持っていなさい!」と言って、帰したそうで(父親を亡くし独り身だったあいさんがどれだけ不安だったか・・・と思うと気の毒でなりません)彼女は独身で35歳の若さでなくなっています。
この次男直系の菩提寺は江戸時代から寒風沢の松林寺ではなく宮戸の観音寺でした。松島湾を歩くたびに先祖に思いを馳せる自分です!
最後までお読みいただきありがとうございました。
ゴシュランこと鈴木由美子
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日和山から砲台跡に行く「侍ロード」(私が勝手に名付けています)です。幕末あたりは日和山と大砲台を何度も行き来したサムライたちもいたのではなかろうかと想像してしまいます。