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御所坊に於ける無方庵の空間展開

「わしの感覚でするなら手伝ってやるわ!」と、それまで厳しい顔つきをしていた先生が、にっこり笑って言った。
以来、約35年。世話になってきた。

「漢詩をつくれる人、知らない?」


1987年、昭和62年。新しく鉄筋の建物を建てるのではなく、古い木造旅館をリニュアルしようと考えた。テーマはこの建物が一番輝いていた時代。
昭和初期、谷崎潤一郎が来ていた時代。陰影礼賛だ!
蛍光灯の白い光から、白熱灯の黄色い灯へ時代の逆行。

谷崎は関東大震災にあい阪神間に移り住み作風が変わったという、それまでの西洋好みから東洋へ、谷崎の暮らした家は、日本家屋に西洋的な部分と中国的要素が組み入れられている。

幸い御所坊には洋館的な部分が残されていた、本物のステンドグラス、床はチークとオークの組み合わせ、彫刻の柱はどうやって彫ったのか分らない。
この部屋は祖母の自慢で、この一部屋で2階、3階分の費用がかかったと言っていた。

1年間の部屋の稼働を調べて、大広間や中広間を区切って客室にする。反対に普通の部屋をくっつけて、それまで部屋に付いていなかったトイレやバスを備えるようにした。
そして1階はバーやレストランのパブリックスペースを設けることにした。

その頃、イベント開催を一緒にやっていた音楽関係の友達に、シンセサイザーでオリジナルのBGMを作ってもらった。
館内全体から音が流れるように、小さなスピーカーを床の間や床の隙間にたくさん設置して、凝ったシステムを構築した。

そうなるとカラー写真でなくモノクロ写真だ!

1989年に描いた外観イメージ

そこで神戸大丸の商業写真を撮っていて、有馬温泉をはじめ神戸観光の写真を撮っていた小林さんに「モノクロ写真を撮ってほしい。そして誰か漢詩をつくれる人は知らない? 漢詩で御所坊のイメージソングをつくりたい」という話をした。

このようなイメージをしていた

小林さんは、「ちょっと聞いてみる」と言って、その時はすぐに帰っていったが、2,3日して「先生の茶室に案内するわ!」という電話が入った。

茶室か・・・

何か堅苦しい所に案内される。茶の詳しいこともわからないから、かみさんについて行ってもらうことにした。

神戸 御影にあった小林さんのオフィスで待ち合わせをして、そこから歩いて先生の所に向かった。

石垣に蔦が絡まった塀の屋敷が先生宅だった。

小林さんが勝手口の扉を開けて「先生!」と声を上げると、紺色のはかま姿の綿貫先生が出迎えてくれた。

庭は、いわゆる日本庭園ではない。
庭の奥に茶室が設けられていて、オープンな茶室で、板の間の真ん中に囲炉裏が設けられていた。

無方庵の茶室

先生は円座を指さして座れという。そして胡坐で良いよと言ってくれた。

いわゆる茶の世界とは、全く違った無方庵流の茶の世界だった。
と言っても、その時どうだったかは緊張していて今では覚えていない。
その後、家の中に案内されて色々話を聞いた。

ただ覚えているのは最後に「では、一度近いうちに行くよ!」という言葉だけだ。
そして先生にかかわって貰ったら、御所坊は良くなるだろうと思った。

先生が御所坊にやってきた。

その当時、御所坊は玄関のある建物を“本館”、そしてお風呂から上の部分を“新館”と呼んでいた。

リニュアル計画は一度にすべてを改修するのではなく、ブロックごとに分けて行い、休館する期間を出来るだけ少なくするようにしていた。
実際連続して1ケ月間休館したのは大浴場の改修の時だけだった。

ゴールデンウィーク後から夏休みまでの期間に新館の部分を工事する事にして、解体を始めていたころに、先生は小林さんと御所坊にやってきた。

まだ手を付けていなかった本館の部屋に先生達を案内し、二人の設計士から建築パースを基に説明を始めた。

先生はいつもそうなのだが、説明の途中に「ところで紙はあるかい?」と言って話を遮る。
紙を差し出すと、カバンから太い万年筆を取り出す。まず見たこともない万年筆だ。
そして「来るときに浮かんだんだけどね」と言いながら、先生の文字で書きだした。

「どうだ?」と先生が言った時には漢詩が紙に書かれていた。

当時書かれた漢詩

その後、先生達を見送って、うれしくてその漢詩をカフェドボウの竹田君に見せに行った。

そこに炭酸せんべいを製造販売している覚前君がいて、漢詩を見るなり「これ無方庵じゃないの?」という。
「何で知っているの?」と聞くと、「無方庵は和菓子業界で有名で僕もこのような文字を使いたいと思って、広告屋に言っている所だ。」と彼から初めて先生の事を知った。

そして彼は「こんな人に頼んだら高いんと違うの?」と言われた。

綿貫先生スペシャル

かみさんが同席している時は、かみさんが記録を取ってくれている。
それらを色々入れているフォルダーが我が家にある。
先生の思い出を書こうと思って、それを見ていると先生の契約書が出てきた。

覚前君に先生の委託料は高いんじゃないのと言われていて、いつかお金の話をしなければいけないと思いながらも、先生と会うと色々な思いや、話をして忘れていた。

ある時、契約書を渡された。

改めて綿貫スペシャルを見ると、拓本や漢詩の制作費の内訳が出てきた。

最近見てびっくり!バブル期だったなあ

拓本閑中抄 30万×9=270万 改装中の9部屋の床の間用の費用だ。
漢詩制作  100万
山水雲はたぶん部屋名だと思うけど 100万
合計470万

全く記憶に残っていなかった(笑)
見たかもしれないけど、値段を見て払えない。無理だと思ったと思う。

15か年計画で行こう!と言われていた。

契約書を目の前にして、具体的な価格は記載されていなかった。
こちらがいくら払うかという事をこちらが決めなければいけない。

さあ困った!

二人の設計士にも相談した。そして決めた!
1987年の梅雨明け頃だった。僕は32歳。先生は誕生日が来ていなかったので60歳の時だった。


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