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EDガラスは蛍石レンズを超えたのか?

蛍石とは

蛍石とはフッ化カルシウム$${CaF_2}$$の結晶のことで、天然に産出する高品質の蛍石結晶は光学材料として使用可能なレベルの透過率や均質性を備えており、光学系の高性能化に資する特徴的な光学特性を備えていることが発見されました。19世紀には天然蛍石をそのまま研削研磨して顕微鏡用光学系などに使用していました。しかし写真用レンズや天体望遠鏡へ利用するには天然蛍石はサイズが小さすぎました。

そこで天然蛍石を粉砕して溶融固化させることで大型の人工結晶を製造する方法が1950年代から60年代ごろに実用化されました[3]。光学用途の結晶は繋ぎ目のない均質な単結晶でなければなりませんので、この方法で十分に大きな蛍石レンズを得るのは非常に時間とコストがかかりました。

時を同じくして$${CaF_2}$$を主成分とするガラスで蛍石の特性を再現する研究が行われ、フッ化カルシウムに酸化リン$${P_2O_5}$$を混合して溶融固化させると結晶化せずにガラス化させられることが明らかになりました。これがフツリン酸塩系のEDガラスです。edガラスは光学特性は$${CaF_2}$$に似ていますが、非結晶性の物質でミクロ的構造は結晶性蛍石とは対極にある物質です。

最初のEDガラスは、1966年にドイツのショット社がリリースしたPK50という品種で、アッベ数はおよそ75で、蛍石と既存の低分散ガラスの中間程度でした。

蛍石の特徴


蛍石は通常の光学ガラスにない光学特性を持ち、色収差の補正に絶大な効果を発揮します。EDガラスはそれに類似した特性を持つ光学ガラスです。蛍石やEDガラスの特性としては「非常に小さい分散」「非常に大きい異常部分分散性」の2点が特に重要な要素となります。

非常に大きいアッベ数=非常に小さい分散


光の波長によって屈折率が変化することを分散と言います。蛍石は、この分散が非常に小さい物質として知られます。蛍石では、分散を表すアッベ数は95.1という大きな値を示します。アッベ数は「分散の大きさの逆数」に屈折率による補正値を掛けたものなのでアッベ数が大きいほど低分散であることを表します。通常の光学ガラスのアッベ数が25~65程度の値を取るのと比べと蛍石のそれはても大きく、並外れた低分散材料であることが分かります。

非常に大きい異常部分分散性

結晶性の蛍石はF-g波長間の異常部分分散性が+0.0519という大きなプラスの値をとります。これはほぼすべての光学ガラスより大きな値です。


異常部分分散性とは

部分分散比とアッベ数の間にはほぼ線形的な関係があることが知られています。この関係からの逸脱の大きさを異常部分分散といいます。理論上は、
短波長域でプラス方向に大きな異常部分分散を持つガラスを正レンズに、
マイナス方向に大きな異常部分分散を持つガラスを負レンズに使用すれば色収差を高度に補正した光学系が実現可能になります。蛍石が色収差補正に大きな効果を持つといわれている所以です。

アッベ数と部分分散比の間の関係式は、メーカーによって微妙に異なるものが使われていますが、ここではオハラのカタログで使用されている基準[2]に統一します。

$$
θ_{std.,F,g} = 0.00162×v_d +0.6412 
$$
この計算式でアッベ数に応じた標準部分分散比を計算しそれと実際の部分分散比の偏差が異常部分分散性の値になります。

例えば、結晶性蛍石のアッベ数95.1を上式に代入すると0.4875となります。これに対して結晶性蛍石のF-g波長間の部分分散比は0.5394です。そのため結晶性蛍石の異常部分分散性は0.5394-0.4875 = 0.0519という値になります。

蛍石と同等のアッベ数を持つガラス

1987年に世界で初めて蛍石と同等のアッベ数95を持つ光学ガラスK-CaFK95(通称:『ホタロン』)が住田光学ガラスからリリースされました[5]。その後オハラやHOYAもアッベ数95のガラスを開発しました。これらはアッベ数こそ蛍石と同等だったものの異常部分分散性では蛍石の9割ほどに留まっていました。

蛍石を超えるアッベ数を持つガラス


横軸にアッベ数、縦軸に異常部分分散性の値を取ったグラフ。青丸のデータポイントは各社のEDガラス、赤い三角形が結晶性蛍石の位置。EDガラスではアッベ数が大きくなるほど異常部分分散性が大きくなる傾向がはっきりと見られる。結晶性蛍石はアッベ数が同じEDガラスよりも大きな異常部分分散性を持っている。結晶性蛍石よりも有意に大きなアッベ数を持つEDガラスの品種としてはFIR98UVとFIR100UVの二種類のみ(双方とも住田光学ガラスの製品)が実用化されている。FIR98UVは結晶性蛍石よりも異常部分分散性が小さい。2018年にリリースされたFIR100UVはアッベ数と異常部分分散性の双方が結晶性蛍石を上回った最初のガラスである。
アッベ数82のグループは1970年代にEDガラスの「定番」となり各社から類似品種がリリースされた「初期のEDガラスの定番」で、95のグループは蛍石と同等の光学特性(アッベ数)を謳うEDガラスの品種である。



K-FIR98UV

フツリン酸塩系ガラスでは、酸化リンの濃度を減らしてフッ化物の濃度を100%に近づけるほどアッベ数や異常部分分散性が大きくなります。K-CaFK95を実用化した住田光学ガラスはアッベ数97.8の品種K-FIR98UVを開発しました。EDガラスでは基本的にアッベ数が大きいものほど異常部分分散性も大きくなる傾向があるので、そうであればFIR98UVは結晶性蛍石を超える異常部分分散性を持つことが期待されますが、アッベ数では蛍石以上、異常部分分散性では蛍石未満でした。

FIR98UVはアッベ数を増やすために酸化物を減らしたことによる副次的効果として紫外線~可視光~赤外線の広い波長範囲の電磁波を透過させる特徴を持つようになり、赤外線透過ガラスの1種としてラインナップされています。このような広波長透過特性は結晶性蛍石でも同様に見られる特徴です。

K-FIR100UV

2018年にはFIR98UVからさらにアッベ数を大きくしたガラスであるK-FIR100UVが登場しました。このガラスはアッベ数(vd)が101.0に達し、現時点(2021年)で市販されている中で最もアッベ数の大きい光学材料です。アッベ数が大きくなったことにより異常部分分散性もFIR98UVから順当に増加し、ついに結晶性蛍石の+0.0519を8%上回る+0.0560という値にになっています。

結晶性蛍石は可視光だけでなく紫外線から赤外線まで広い範囲の電磁波を透過します[4]。EDガラスもアッベ数の大きいものは同様に紫外線や赤外線を透過しますが、例えばFIR100UVは波長6.5μmまで50%以上の透過率を有し、赤外線透過ガラスとしてラインナップされていますが、蛍石は波長9.5μmまで50%を超える透過率を有し、波長5μmを超えるような波長領域では蛍石に今なお大きな優位性があります。
また蛍石はEDガラスよりも比重が軽いという利点があります。EDガラスは低分散ガラスとしてはかなり比重が大きい傾向にあり、例えばFIR100UVでは比重3.62になります。対して蛍石は比重3.18 [4]と1割以上小さく、特にレンズが大口径となるような望遠レンズや天体望遠鏡では大きな重量の差になります。
このほかに蛍石は化学的耐久性に優れ、EDガラスは物理的耐久性(硬度や耐熱衝撃性など)に優れるという違いがあります加工の面ではどちらも難加工材といわれますが、蛍石の方がまだマシのようです[3]。

結晶性蛍石と蛍石と同等あるいはそれ以上のアッベ数を持つEDガラスの諸特性の比較。
BK7はEDガラスではない標準的な低分散ガラスの例として示した。
EDガラスは蛍石より比重が大きく、硬く、熱膨張率が小さい。
ガラスについては住田光学ガラスの当該各品種のPDFデータシート、結晶性蛍石については出典[4]を参考とした。


参考文献

[1] 沢登成人 2018,『全フッ化物超低分散ガラス(pdf)』一般社団法人日本オプトメカトロニクス協会
[2] 
[3] 鈴木誠 2020,『キヤノンLレンズの「人工蛍石結晶」ができるまで』デジカメwatch 2020-06-03

[4] キヤノンオプトロン株式会社「結晶材料パンフレットフッ化カルシウムCaF2 (通称:蛍石)(pdf)」

[5]「会社沿革」住田光学ガラス株式会社



[3] 


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