背中に突き刺さったツルハシ
「ルックバック」を2回観た。
元は漫画だから全てのセリフは吹き出しの形で描かれていた。映画では俳優さんが声を当てるので、吹き出しは必要ない。
しかし
一つだけ吹き出しの形で表示されるセリフがある。
観客はこの問いを突きつけられる。
監督と音楽を担当したharuka nakamuraさんが出演した舞台挨拶に行った。まず映画が上映される。1回目とは違う部分に目を惹かれる。そして1回目もそうだったが私は(理由は知らないが)映画が終わった後に泣く。映画終了後場内に静かな拍手が湧き起こる。私が拍手しなかったのは両手で顔を覆っていたから。
監督はこう言っていた。この映画にはいろいろな意味がある、と。
予告編でも使われているLight songという印象的な曲がある。意図的に歌詞をつけていないとのこと。歌っているuraraさんは変な我を主張しない歌い方ができることも選んだ理由の一つとのこと。簡単に解釈できる物語ではない、という監督の意図に沿った選択だろう。
私なりにこの映画のメッセージについて考えた。
二人の対話の中で、この曲は讃美歌のようであり、讃歌である、という言葉があった。
この映画で描かれているのは、創作に取り憑かれた人間の姿。意味も予告もなく訪れる唐突な終焉。それに対する人間の無力さ。
讃美歌には鎮魂の意味がある。この映画にこめられたメッセージの一つはそれ。死んだ人間に対して生きている人間は何もできない。せめて死んだ人間の魂が安らかであるようにと祈り、自分たちの心の慰めにすることしかできないし、それでいいのだと思う。
そしてもう一つは讃歌。創作という必ずしも何の役にたつのかわからないものに時間と情熱と人生を注ぎ込む人たちを讃えよう。
そしてもう一つは「呪い」
この映画の主人公二人ともその呪いに取り憑かれている。何かを生み出す、という呪いに。これは藤野の声を演じた人の言葉である。
藤野が言う通り漫画を描いても「何の役にもたたない」しかし創作はほぼ全てがそうだ。音楽にしろ、詩歌にせよ。長年疑問に思っていることがある。人間はなぜ音楽に金を払うのだろう。なぜ音楽が産業として成立するのか。だってエネルギー問題を解決してくれるわけでも、食料問題を解決してくれるわけでも、衣服になるわけでもない。衣食住なんの役にも立たない。
なのに人間は創作物に時間と金を注ぎ込む。そして創作という呪いに取り憑かれた人間も大勢いる。何の役にも立たないし、99%の人にとってはなんの得にもならないと知っているのに。
それは最後の4コマ漫画で藤野の背中に突き刺さっていたツルハシのように。
映画の最後、藤野の後ろ姿だけが描かれる。京本家を出、雪道を歩く藤野の背中。そして一人部屋で朝から晩まで描き続ける背中。
1回目の鑑賞後に
「書かないと死んじゃうからだよ!」と頭の中で何度も言った。私は漫画は描けないが、こうやって文章を書き続けている。
2回目の鑑賞後に
「こんなじゃだめだ!(気持ち的に書きかけの原稿を破りながら)」と頭の中で何度も言った。デジタルデータなので破り捨てはしない。しかしそろそろ完成かなと思っていた本のダメさをつきつけられた。
これまで書いた本の多くがそうだったように、いくら考えて書いたところでほとんど誰も読んでくれないことはわかっている。しかし私は書いている。
この映画を見たものとして、中学生に負けないくらい書きたいと思うのだ。