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【小説】本音しか喋れなくなったシュバルツェの話。(後編)

(馬鹿なのかコイツは!?)

少し離れた地点から隠れてキルシェの様子を伺っていたシュバルツェは、彼女の予想外の行動に頭を抱えていた。まさか自分を探すために魔法少女に変身するとは予想していなかったのだ。

(まずい、一刻も早くここを離れなくては)

変身前の状態でも高い魔法適性を持つキルシェは、当然魔法少女に変身すればあらゆる能力が人の身である時以上に跳ね上がる。
そしてその能力をブーストするように、彼女は運動神経も非常に優れている。

つまり、この手の追いかけっこにおいてはキルシェの方が圧倒的に有利で、正直なところシュバルツェの状況はかなり分が悪い。

しかし、ここで諦めるわけにはいかない。なんとしてでも彼女を撒いて帰宅せねば。

シュバルツェは意を決して、再度転移魔法を唱えようとする。だが、

『転移(メタスタ……)』

「シュバくん、みーっけた!!」

「っ……!!」

いつの間にここまで接近を許してしまったのか。気付いた時には既にキルシェが目の前に立っていた。咄嗟に逃げようとするが、それよりも早くキルシェが手を掴んできた。

「んもー!いきなり逃げ出すなんてひどいじゃん!」

「……っ、離せ」

「いやですー!どうして逃げたのか教えてくれるまで離しませんー!!」

なんとか振り払おうとするが、キルシェが掴んでくる力が思った以上に強く、簡単には抜け出せそうにない。

(この馬鹿力め……!)

内心で悪態を吐きつつ、シュバルツェは早々にキルシェの手を振り解こうとするのを諦めたように腕の力をふっと抜いた。

「あれ?もう降参?さすがにちょっと諦め良すぎな……」

『解けろ(リゾード)』

不意をつくように呪文が詠唱された瞬間、シュバルツェの腕を掴んでいた手はキルシェの意思と関係なく脱力し、そのまま離れた。

「え?あれ……?」

思わず間の抜けた声を漏らしてしまうキルシェをよそに、シュバルツェは再び転移魔法の呪文を唱えるとその場から忽然と姿を消す。

「あーーーーっ!!ちょっとぉおおおお!!!」

一人取り残されたキルシェの叫びが、辺りに虚しく響き渡った。

「もう、絶対捕まえるんだから!!『転移(メタスタス)』!!」

キルシェもまた転移魔法を詠唱し、僅かに残ったシュバルツェの魔力の残滓を辿ってその場を離れた。イタチごっこのような逃走劇はまだ、始まったばかりだ。


「ぜぇ、はぁ……っもう、なんで逃げちゃうのー!」

「………っ、お前こそ、何故ここまで追いかけてくる……っ!?」

「だってシュバくん、何にも話してくれないんだもん!!」

転移魔法を繰り返して逃げ続けるシュバルツェと、それを追いかけるキルシェ。二人の攻防はもうかれこれ数十分ほど続いていた。黒き明日(ディマイン・ノワール)で戦闘訓練を受けた経験のあるシュバルツェも、元々高い身体能力と魔法適性を持つキルシェも、まだ余力を残している。

それがこの逃走劇をより長引かせている原因でもあった。

「くそ、キリがない………っ!」

「あ、また!!」

シュバルツェの姿が再びその場から掻き消える。だがまだ諦める気のないキルシェはすぐに彼を追おうと魔力を練る。

「もう〜!!いい加減諦めてよ!!『転移(メタスタ……)』」

シュバルツェと同様に転移魔法を使おうとしたキルシェだが、

(あれ……?)

一瞬ふらりと足元がおぼつかなくなった。

キルシェはこの現象に覚えがある。魔法少女になったばかりの頃、魔法の強さの加減が出来ずにエナジーを使いすぎた時、ちょうどこんな風に目眩に似た症状が出たことがあった。

「あれ?いつもだったら、このぐらいでこうなったりしないんだけど……」

しかし、身に覚えのない倦怠感と脱力感の正体はすぐに判明する。

─ぐうぅうううう……きゅるるるるる……

突然鳴り響いた腹の音によって。

そういえば午前授業だったから家でご飯を食べるつもりで弁当は持って来ていなかったし、授業が終わった後は予定外の部活の助っ人を頼まれたのでお昼には何も食べていない。

……これでは、エナジーが切れていなくても力が入らなくなるはずだ。

「シュバくん、タイム!キルシェちゃんはお腹ぺこぺこであります!これ以上追いかけっこしたらエナジー切れ起こしちゃうかも!」

まだ近くにいるであろうシュバルツェに向かって声を張り上げる。しかし、彼が姿を現す気配はない。

「ちょっとー!シュバくーん、聞こえてるんでしょー?」

返事はない。ただ、微かに人の気配を感じるだけだ。

「ねえってば!出てきてよー!」

やはり返事は無い。キルシェが動けないのをいいことに、どこかに隠れているのだろうか。それとも、まだ追われていると思い何処かへ行ってしまったのだろうか。どちらにしても、このままでは埒が明かない。

「えーい、仕方ないなぁ……」

キルシェは魔装の胸元にあるブローチに触れる。その瞬間、魔装はキルシェの魔力を反映させたピンク色のリボンの束に変化してブローチの中に回収され、先程まで魔法少女の姿だったキルシェは元の制服姿に戻る。

どこかでこちらの様子を伺っているであろうシュバルツェが見たら、自分が探すのを諦めたように見えるだろうか。

だが、これはあくまで作戦だ。

─追いかけるだけが、捕まえる手段じゃないもんね

キルシェはスクールバッグを背負い直すと、その場を後にした。


(……ようやく諦めたか)

シュバルツェは恐る恐る周囲を警戒しながら姿を現す。どうやら完全に撒いたようで、キルシェの気配を追っても自分の方に向かって近づいている様子は無い。

魔法を一般市民に見られるわけにもいかないため、なるべく人気のない場所を選んで逃げ回っていたが、キルシェは普通の人間に見られないよう認識阻害の魔法を使っていたようだ。街で騒ぎが起きている様子も無いし、恐らくその辺りの心配は必要ないだろう。

しかし、散々な目に遭った。

本人に言うつもりの無かったことはいくつか口走ってしまったし、魔法少女に変身してまで追いかけ回して来るとは思わなかった。もし彼女が空腹で諦めなかったら、今頃まだ追い回されていたことだろう。

(……まぁいい。ともかく後は家に篭ろう)

昨晩薬を飲んでしまったのは日付が変わる直前だった。つまり、あと数時間もすれば魔法薬の効果は切れるだろう。そうすればいつもの自分に戻れるはず。

たった数時間、誰にも会わず会話もせず、ひとり大人しくしていればいいだけ。

この時のシュバルツェは、それが容易く実行出来ることだと完全に思い込んでいた。


自宅に入った瞬間、ほんの僅かに違和感のようなものを感じた気がした。鍵はかけて出掛けたし、帰宅した時も施錠はきちんとされていた。別に家の中が荒らされているような形跡もない。

それなのに、何かが違うような気が──

そう思った瞬間、

「────っ!?」

背後から何者かに抱きつかれた衝撃で思考が中断される。
この家には自分以外に誰もいないはずなのに一体誰が。

まさか新手の敵襲なのかと警戒したシュバルツェだったが、すぐにその考えを打ち消した。

ふわりと香ってきた甘い匂いに、背中に当たる柔い感触と華奢な腕の感触、そして視界の端に映る毛先が桃色に染まった金色。

その全てに覚えがあったからだ。

「……おい、何をしている?」

首だけを動かして背後を振り返る。そこには予想通り、満面の笑みを浮かべた少女の姿があった。彼女は嬉しそうに目を細めて笑う。

「つかまえた♡」

キルシェはそう言って笑むと、そのままぎゅっと抱きついてきた。まるで飼い主を見つけた子犬のように無邪気にじゃれついてくる彼女に、シュバルツェは諦念にも似た溜息を漏らす。

「……はぁ……」

こうなったらもう何を言っても無駄だということはこれまでの経験上よく分かっていた。一度決めたことを絶対に曲げようとしない頑固さもまた彼女の魅力ではあるのだが、今のシュバルツェにとっては厄介なことこの上ない。

深い溜め息を一つ吐くと、シュバルツェは渋々キルシェの方に向き直った。

「どうやってここに入った。鍵はかけていたはずだが」

「シュバくん前にさ、鍵を開けるための魔法使ったでしょ?あれを真似してみたらできちゃった♪」

「……解錠(ウーヴリル)か」

そう言えばそんなこともあった、と思い出す。

夏休みに海に出かけた時、キルシェがシトラスとトルバランに寝起きドッキリを仕掛けたい!などと騒ぎ出し、それに巻き込まれたシュバルツェが仕方なく魔法で二人の泊まる部屋の鍵を解錠したのだ。

確かにあの時キルシェはシュバルツェが解錠魔法を使うところを間近で見ていたが、たった一度しか見たことのない魔法を一発で成功させるとは。

(やはり天才というのはいるものだな……)

感心しかけたところで、シュバルツェはハッと我に帰り頭を振った。

今はそんな場合ではない。目の前の少女にはどうにかして家から出て行ってもらわねば。

「……一応聞くが、何しに来た」

シュバルツェの問いかけに彼女は一瞬きょとんとした後、待ってましたとばかりににっこりと笑って答える。

「えー?そんなの決まってるじゃん!笑った顔の他にキルシェちゃんのどこがかわいいと思ったのかじっくり教えてもら……」

「よし、帰ってくれ」

シュバルツェはキルシェの首根っこを掴んでずるずると玄関まで引きずっていく。

「わー待って待って!!他にもあるんだってば!」

「どうせまたしょうもない事だろう」

「違うってばー!ちゃんと大事な、てかこっちが本題!!」

首根っこを掴まれながらじたばたと暴れるキルシェをじろりと見下ろすと、少女は不満げに頬を膨らませて言った。

「シュバくんさ……正直今、何か困ってることあるでしょ」

「……なんだと?」

思わぬ発言に眉を寄せると、キルシェはそのまま続ける。

「かわいいって言ってくれたのは嬉しかったけど、なーんかちょっとシュバくんにしては素直過ぎるなって思っちゃったんだよね。それになんか、元気ないみたいだし」

そこまで言われてから、彼女が意外と日頃から周りを注意深く観察している人間だったと思い出す。魔獣や黒き明日(ディマイン・ノワール)との戦い、それ以外の部分でも、キルシェは特にシュバルツェと行動を共にすることが多い。些細な変化にも敏感に気付いてしまうのだろう。

「別に困ってなんか……っ、」

反射的に反論しようとしたシュバルツェはしまった、と思うと同時に口を噤もうとしたが、

「……無いわけではなくて、実は昨日間違えて飲んだ魔法薬のせいで本当のことしか話せなくなっていて、口を開けば思っていることがダダ漏れになる状態に陥っているもう嫌だ本当に死にたい勘弁してくれ」

ボロを出すどころか、事の全容を話してしまったのだった。

しかも早口で捲し立てるように一気に喋ったせいで息切れしている始末である。

「本当のことしか話せなくなる薬……?」

キルシェはぽかんとした顔で首を傾げる。どうやら意味がよく理解出来なかったらしい。こんな突拍子もない話をいきなりされても理解しろと言う方が無理な話だとシュバルツェは思い、諦めて補足の説明を述べる。

「……黒き明日(ディマイン・ノワール)にいた頃に作った魔法薬を何本かこちらに持ってきていたのだが、昨日寝る前に別の薬と間違えて飲んでしまった。

尋問用に服用した者が虚偽の発言を出来なくなる薬を開発したことがあって、恐らくその時に作った試作の一つだ」

「じゃあシュバくんは今、本当のことしか喋れなくなっちゃってる……ってこと?」

無言で頷くシュバルツェを見て、ようやく事を理解した様子のキルシェは神妙な面持ちになる。

「……それはヤバいね」

「ああ、だから困っている」

はぁ、と大きな溜息を吐く。

「ちなみにそのお薬って、効果はいつまで続くの?」

「丸一日だ。飲んだのは日付が変わる時間帯だったから、あと数時間といったところだな」

それを聞いて、今度はキルシェが溜息を吐いた。そして一言「……そっかぁ」と言ったきり、考え込むようにして黙ってしまった。

てっきり彼女ならもっと食い下がってくるものだと思っていたので、シュバルツェは拍子抜けした。

キルシェのことだから、自分が本当のことしか口に出来ないのをいいことにあれこれ聞き出そうとしてくるに違いないと思っていたのに──

しかしそんなシュバルツェの思惑に反して、キルシェはしばらく何かを考え込む素振りを見せた後、ぱっと顔を上げて言った。

「おっけー!それじゃあたし、今日はもう帰るね!」

「………は?」

シュバルツェは思わず目を丸くする。一瞬聞き間違いなのではないかと思ったが、キルシェはソファの上に置いていたスクールバッグを肩にかけてそそくさと玄関に向かっている。

「キルシェ、」

「ストップストップ!喋っちゃだめ!」

思わず呼び止めようとしたシュバルツェを制止して、キルシェは言う。

「本当のことしか言えないなら、言いたくないことまで言っちゃうかもしれないでしょ?だったら今日はここでバイバイしよ?誰かがいたら、うっかり喋りたくないことを喋っちゃったらどうしよう、って落ち着かないでしょ」

ね、と微笑むキルシェの表情からは悪意など微塵も感じられない。むしろこちらを気遣うような優しい眼差しで見つめられてしまい、なんだか居た堪れない気持ちになる。

しかしシュバルツェの目には何だか、キルシェがただ気を遣っているだけではなく、何か別の意図があって敢えて自分の元から去ろうとしているように見えた。

だからなのか──気が付けばシュバルツェは、部屋を出ようとする彼女の手首を掴んでいた。

「シュバくん……?」

驚いてこちらを見上げる彼女に、今度ははっきりと告げる。

「帰らないでほしい」

それを聞いた途端、キルシェの目が大きく見開かれた。
まさか引き留められるとは思っていなかったらしい彼女は、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。

少しのタイムラグの後、自分が咄嗟にかけた言葉が場合によっては誤解を生むようなものであったことに気付き、慌てて口を開く。

「あ、いや違う!今のは決して変な意味では無くてだな……、こういう時、お前なら面白がって根掘り葉掘り聞いてくるのではないかと思ったのに、そんな事を言うものだから……、」

必死に弁解するシュバルツェだったが、次第に尻すぼみになっていく言葉とは対照的にキルシェの表情はどんどん明るくなっていく。やがて耐えきれなくなったかのようにぷっと吹き出すと、そのままけらけらと笑い出した。

「なに、シュバくん。キルシェちゃんが急に真面目ちゃんモードになったから心配になったの?」

にやにやしながらこちらを覗き込んでくる様子は完全にいつものキルシェだが、それでも今の彼女の方がいいと、なぜだかシュバルツェはそう思った。

「……お前がらしくないと調子が狂う。だからと言って年がら年中騒がしくされるのも考えものだが」

照れ隠しのようにそう付け加えると、キルシェは少し驚いたような表情でこちらを見つめていたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。

「今のも本音だね?」

その言葉に何も答えず目を逸らすと、キルシェはくすくす笑い出す。それから玄関に向かっていた足をくるりと方向転換させ、部屋の中へと戻ってくる。

「……お前こそ、何か俺に言いたいことが有るんじゃないのか?」

「へ?」

きょとん、とした様子で聞き返すキルシェに、シュバルツェは言葉を続ける。

「さっき帰ろうとした時に言ったことが、お前の本当に言いたいことではない気がした。もし言いたくないなら無理しなくていい……と言いたいところだが、正直ちゃんと聞かせて欲し……ああ、くそ。厄介な薬め……」

苦虫を噛み潰したような顔で呟くシュバルツェを見て、キルシェはふっと目を細める。 それから勢いをつけて床を蹴ると、シュバルツェに飛びつくように抱きついた。

「おい、キルシェ……!」

しっかりと飛び込んできたキルシェの身体を受け止めながらも足が縺れてバランスを崩し、シュバルツェはキルシェを抱えたまま背後のベッドの上へと倒れ込む。

スプリングが大きく軋んで、二人の身体が跳ねるように揺れる。仰向けに倒れたまま呆然と天井を見つめているシュバルツェの上に馬乗りになったキルシェは、シュバルツェの胸に顔を埋めたまま動かない。

しばらくして、キルシェがぽつりと呟いた。

「ちょっと、怖いって思った」

「……俺が本当のことしか言えないことが、か?」

少し躊躇った後に発せられた言葉に、シュバルツェはそろりと尋ねる。キルシェはこくりと一度、無言で肯定の意を示した。

「シュバくんっていっつもぶっきらぼうだし、いつもあたしに呆れたり怒ったりしてばっかでさ。でも、本当にあたしのこと嫌がってるわけじゃないって思ってた。だからシュバくんのこと揶揄ったり、ちょっとふざけたこと言ったりしても平気だって思い込んでた」

そこで言葉を区切ると、キルシェは一度深く息を吸い込んだ。そしてゆっくりと吐き出すと同時に再び口を開いた。

「でもそれが全部あたしの勘違いで、本当にシュバくんに嫌がられてたりうざいって思われてたりしたらどうしようって……そういうことを考えちゃう時も、ちょっとはあって。そんで、今のシュバくんが本当のことしか話せないなら、シュバくんがあたしを本当はどう思ってるかもわかっちゃうかもしれないじゃん」

そこまで言うと、キルシェは再び黙り込む。ぐりぐり、と額を擦り付けるように頭を動かすので、長い髪がさらさらと揺れ動いてシュバルツェの顔に触れる。

しばらくそうした後、彼女は顔を上げないまま小さな声で続けた。

「勝手に想像して落ち込むだけならごはん食べて寝ちゃえば忘れられるんだけど……本当に言われちゃったらちょっと、流石のキルシェちゃんでも立ち直れないかもしんないし……」

消え入りそうな声でそう零すと、それきり黙り込んでしまう。

沈黙の中、部屋に響くのは時計の秒針が時を刻む音と互いの呼吸音のみだ。シュバルツェはそっと腕を伸ばして、キルシェの髪に触れた。ツインテールに纏められた髪を崩さないように気をつけながら頭を撫でると、ぴくりと彼女が反応する気配が伝わってきた。

「……お前が想像してる通りの俺だったら、公園でお前の顔を見た瞬間にもう逃げ出していただろうな」

ぽつりと呟かれた言葉に、キルシェが顔を上げる。

あの時、本当にキルシェに会って困ると思っていたのなら彼女を無視してさっさと立ち去れば良かったのだ。なのに何故そうしなかったのか、そうしようと思わなかったのか。

その答えは、すでにわかっていた。

「お前の言う通り、俺はお前に言いたくないことがたくさんある。だけどそれは、お前が嫌だからでも鬱陶しいからでもない」

「……シュバくん、無理に喋らなくていいよ」

「無理はしていない。それに、お前に誤解されたくない」

心配そうに見上げてくるキルシェの頭をもう一度撫で、シュバルツェは続ける。

「……正直お前をやかましいと感じることはしょっちゅうあるし、」

「はぁ!?」

「急に突拍子もない事を言い出して周りを混乱させるし、」

「え、ちょっ、あたしそんな感じだっけ!?」

「うるさいし、無駄にスキンシップが多いし、とにかく騒がしいし」

「ねぇ待って!?後半ただの悪口じゃない!?」

「最後まで聞け」

思わず反論しようとしたキルシェの言葉を遮って そう言うと、彼女は不服そうに頬を膨らませつつも口を閉じる。そんな彼女の反応を確認してから、シュバルツェはゆっくりと口を開く。

「……だが俺は、それがキルシェだと思っているし、そんなお前のことを決して嫌いではない」

直接的な言葉ではないものの、紡がれた言葉に嘘偽りはない。それを汲み取ったキルシェの表情がみるみる内に輝いていくのを見て、思わず苦笑してしまう。

(まったく、単純な奴だ)

だがそこが良いところであり、彼女の魅力の一つでもあるのだろうと思う。

「それだけ伝えておきたかった。悪かったな、引き止め……ゔっ」

突然身体にずしんと重みを感じて、シュバルツェは思わず呻き声をあげる。キルシェがもう一度勢いをつけて抱き着いてきたらしい。

「おま、重っ……、」

「ちょっとー!女の子に向かって重いとか言っちゃダメなんだよー!でも今日のキルシェちゃんはさっきドーナツ10個食べちゃったからいつもよりちょっと質量多めでーす!」

そう言ってキルシェはけらけらと笑う。どうやらすっかりいつもの調子を取り戻したようだ。

「10個……!?お前それは食べ過ぎだろ……」

「だってお昼食べないで部活の助っ人したし、そのままシュバくんのこと追っかけてたからお腹空いてたんだもんー!」

悪びれる様子もなく開き直るキルシェに呆れつつ、しかしその様子に内心安堵する。
やかましくても騒がしくても──やはりこいつはこうでなくては調子が狂う。

「あ、ちなみにね!今日食べたのはチョコとストロベリークリームとカスタードと……シナモンシュガーと……プレーンと、メープルシロップと……あと……、えっと……」

「よくそれだけ食えるな……胃袋の中に宇宙でもあるのか?」

呆れ半分感心半分に呟く。そうすればまた「なんでそんなこと言うのー!」などと軽い調子で文句を言われるかと思っていた。ところが、いつまで経っても返事がない。

「キルシェ……?」

急に静かになった自分の上の少女に違和感を覚えて、声を掛ける。すると返事の代わりに聞こえてきたのはすうすうと規則正しい呼吸音。

僅かに上体を起こすと、案の定そこには目を閉じて眠りに落ちている少女の寝顔があった。まるで電池が切れたようにぴたりと動きを止めてしまったその姿を見て、シュバルツェは小さくため息をつく。

「この状況で寝るか、普通……」

黄色がかった前髪を指先で払いのけてやると、安心しきったような穏やかな表情で眠る彼女の顔が露わになる。その無防備な様子に、何故か胸が締め付けられるような心地になった。

安心した途端に眠くなるほど、自分からどう思われているのか不安だったのだろうか。

だとしたら、それほど自分は彼女に想われているということになるのだろうか。

そんなことをぼんやり考えているうちに、自分も睡魔に襲われ始める。

朝から色々ありすぎて、疲れてしまった。キルシェはとりあえず今はこのまま寝かせておいて、後で起こそう。そう思ったシュバルツェはそのまま自分も眠ってしまおうかと瞼を閉じる。

衣服越しでも伝わってくる体温や柔らかさに少々落ち着かなさを覚えながらも目を瞑ると、すぐに意識が遠のいていくのを感じた。


「んー……あれ?」

窓から差し込む光で目を覚ましたキルシェは、寝ぼけ眼で周囲を見回した。見覚えはあるものの、自宅のように馴染みがない景色が視界に広がっている。

(あたしの部屋じゃない……し、なんかあったかい……)

そこで漸く、自分が今誰かと密着している事に気が付く。

慌てて身を起こすと、昨日押し倒したシュバルツェがそのままの状態で自分の下敷きになって眠っていた。そうして自分がシュバルツェの部屋に居ることに気が付くと、昨夜の出来事の記憶が蘇り、微睡んでいた意識が一気に覚醒するのを感じた。

どうやら自分たちはあれから寝落ちして、そのまま朝を迎えてしまったらしい。

「うわわわっ、ごめんシュバくん!!てか、今何時……」

慌ててシュバルツェの上から飛び退いて、ベッドサイドに置かれた時計を確認したキルシェは、ピシリと固まった。

日付は一日進んでいて、時刻は早朝の5時。

つまり、一晩シュバルツェの部屋で寝過ごして今に至るというわけだ。

その事実を理解した瞬間、キルシェの顔が真っ青になる。

「うぇえええええええ!?日付変わってんじゃん!!学校行かないと……ってかまず家に連絡入れないとヤバイ!!ていうかそもそもシュバくんに謝らないと!!」

慌ただしく立ち上がり、部屋の主を揺り起こそうとしたその時。

くぐもった振動音がベッドから少し離れた場所で鳴り響いた。

少し考えてそれがスマートフォンの着信音だと理解し、放り出されたスクールバッグの方に近付く。中を漁って取り出した液晶画面に表示された発信者名はキルシェの想像通りの人物で、一瞬躊躇った後に通話ボタンを押した。

「も、もしも……」

『キ〜〜〜ル〜〜〜シェ〜〜〜!!!!』

スピーカーモードにしなくてもわかるくらいの音量で響いた声に、反射的に耳を遠ざける。電話口の相手は相当怒っているようで、いつも以上の早口で捲し立ててくる。

『あんたねぇ!せめて電話に出なくてもメッセージの既読くらいつけなさいよ!!いくら我が家が門限ゆるゆるで外泊OKだったとしても、半日も音信不通じゃ心配するに決まってるでしょう!?』

「ヒィイイッ!!エマちゃんゴメンナサイ!ほんとすみませんマジで反省してますからぁあああっ!!!」

エマちゃん、と呼ばれた女性は電話口の向こうで呆れたように溜息を吐く。キルシェの母方の叔母に当たる彼女は、キルシェと共に暮らし始めて十数年になる。

普段は気さくで保護者というよりも年上の友達や頼りになるお姉さん、といった存在なのだが、怒らせると誰よりも怖い。

『全く……あんたのことだからまた友達の家で寝落ちしたんだろうなとは思ってたけど、せめてスマホは連絡が来たらすぐ確認できるようにしておいてちょうだい。どうせカバンの中に入れっぱなしだったんでしょ』

図星だった。ぐうの音も出ないとはこのことだ。

「うぅ、面目次第も御座いませぬ……」

エマの説教を素直に聞き入れるキルシェは、対面通話でもないのにその場に正座してへこへこと頭を下げる。その様子が容易に思い浮かぶのか、エマは再度深い溜息を吐いた。

『まぁいいわ。学校にはまだ早いし、一度うちに帰ってきなさい。シュバルツェ君にもちゃんと謝るのよ』

「はーい……」

しょんぼりと肩を落としながら返事をし、スマートフォンを耳から離したところで、キルシェはあれ、と首を傾げる。

「ちょっ、エマちゃん!?あたしシュバくんの家にいるなんて一言も言ってな……あっ!!」

咄嗟に口を噤むがもう遅い。受話器の向こう側からはしてやったりといわんばかりの笑い声が響いていた。

『やっぱりシュバルツェ君と一緒だったんじゃない♪相変わらず仲良しね〜』

「ち、違くて……いや違わないんだけど!なんてゆーかその……」

ニヤニヤとした声色に反論しようと口を開くが、何を言っても墓穴を掘りそうな気がして言葉が出てこない。

『これはじっくり話を聞かないといけないわね〜!それじゃ、気をつけて帰ってきなさいね!』

一方的にそう言うと、こちらの返事を待たずにプツリと切れてしまう。ツー、ツーという無機質な機械音を呆然と聞きながら、キルシェは暫くの間放心状態のまま立ち尽くした。

(なんか絶対ヘンな誤解されてる気がする……!!)

しかしどの道、真実を説明するわけにもいかない。

エマは魔法の存在なんか知らないだろうし、シュバルツェの様子がおかしくなったので家まで押しかけたらそれが本当のことしか言えなくなる魔法薬のせいで、図らずも彼の本心を知ることができたので安心してそのまま寝落ちしました、だなんて説明したところで正気を疑われるだけだろう。

家に着くまでに何か良い言い訳を考えようと心に決めてスクールバッグを肩にかけ、未だにベッドの上で目を閉じているシュバルツェを振り返る。

「シュバくん、あたし家に帰るね。……色々、ごめんね」

返事はない。まだ眠っているのだろうか。それとも狸寝入りだろうか。そっと顔を覗き込むと、僅かに瞼が震えているのが見えた。

やはり起きているのかと思い声を掛けようとして、キルシェはふと思い出す。

今が朝の5時ということは、シュバルツェが飲んでしまった魔法薬の効果はもうとうに切れてしまっているだろう。

(そっか、もう今のシュバくんは本当のことしか言えないわけじゃないんだ……)

そう思うとなんだか少しだけ寂しい気もしたが、これが本来あるべき形だ。

誰だって自分の心のうちを全て曝け出すことなんか出来ないし、自分自身でもその気持ちが本物か偽りかの判断がつかない時だってある。

それでも昨日交わした会話やシュバルツェの態度は薬のせいなどではなく、本心からのものだったはずだ。ならばそれで十分じゃないか。そう結論付けて、キルシェは再び眠りこける黒髪の青年を見下ろした。

「またね、シュバくん」

目元にかかった前髪を軽く払い除けて、顕になった額に触れるだけの口付けを落とす。それから静かに立ち上がって部屋をあとにした。

玄関から外に出ると、空は白み始めていた。

朝焼けの眩しさに目を細めつつ、キルシェはアパートの階段を下りていく。冷たく澄み切った空気の中、ゆっくりと深呼吸して肺いっぱいに吸い込んだそれを吐き出すと同時に自然と笑みが浮かんだ。

今日もきっと楽しい一日になるだろう。
そんな予感に胸を躍らせながら、キルシェは軽い足取りで帰路についた。

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