「やりたいこと」が求められる世の中で君たちはどう生きるか
こんにちは。
ゴリゴリ親方です。
さっき感情に任せて書いた投稿が呼び水になって、急にもう一本書きたくなりました。
やっぱり0か1かの違いって大きいですね。
では、本題に入ります。
私は「楽しさ」「やりたいこと」を以前より人々が重視するようになったと感じます。そして、「~しなければならない」といった従来の束縛を忌避し、個々人の気持ちを尊重し、それぞれがそれぞれのなりたい自分に向かっていくことが「よいこと」とされている傾向があるのではないでしょうか。
私はこの傾向に乗っかっていません。なぜなら、自分は承認欲求を満たして、知人、数少ない友人、家族が自分のことを誇らしいと思えれば、なんでもいいからです。
私のやることに立派な大義や楽しさなど一切不要なのです。
一方、私の周りには立派な志を持っている方がたくさんいます。
「社会貢献したい」「~で苦しむ人を救いたい」などなど。
私は彼らのことを本当にすごいと思うし、尊敬しています。
ですが、私は彼らのようになりたいとは思いません。
なぜなら、彼らがやっていると「善」なものも、私が同じことをやった瞬間に「悪」になってしまうからです。
上述したように、私は承認欲求さえ満たせればそれでいい、とても現金な人間なのです。
そんな人物が「社会のために」などと言っていても、なんだかグロテスクです。
もしかしたら周りから見たら、「立派な人だな」となるかもしれませんが、何より自分が猛烈な違和感に包まれることになります。
私はこの違和感と対峙するのは得策ではないと考えるため、承認欲求マシマシの独善的人間のまま生きていきたいと思います。
変な話、楽しくなかったり、やりたくなかったりすることでも、続けるだけで偉くなれたり、稼げたり、尊敬されたり、力がついたりして精神的不満足を消し飛ばすことは可能なのではないでしょうか。
まあ、心身をぶっ壊してまでそれを狙うかどうかは人によると思いますが。
私は楽しいことに対して心があまり動かなくなったと感じます。
人間的に成長したからなのか、ある種の病気なのかは分かりませんが。
なので、私が信じることのできる「満足」とは自分自身の心の満足ではなく、能力や実績などの社会的ステータスといった、世間の皆様が私を見た時の「満足」なのです。
なんだか今回の記事は、自分を「独善的人間」と評したと思ったら、今度は「世間体が大切だ」などと、支離滅裂な自己矛盾のオンパレードになりました。
ですが、万物は不可分です。
全てが混ざり合っています。
あらゆるものが整然と区画された我々の社会では、「善」と「悪」や「きれいなもの」と「汚いもの」などあらゆるものが区別、ある時には差別できるとみんなが信じているように感じます。
ですが、全部、この世界に存在しているという意味では一つなのです。
うんこもアイドルも猫ミームも全てこの世界に存在しているのです。
だから、未熟な人間である自分が、矛盾する感情や思考を持ち合わせていても何らおかしくないと私は考えます。
何だか、宗教チックで言い訳臭い文章ですね。
それに、精神的満足ではなく、社会的ステータスを追い求めると言っておきながら、書きたいからという理由で誰も見ない上に特に自分にとって得にならないこのnoteに時間を割いてしまいました。
ですが、今回は自己矛盾を包み込むだけの包容力を持つこの世界に甘えることにします(イタイ)。
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