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憎悪の再生可能エネルギー

どうも、ゴリ松千代です。


要らない物を捨てる時、捨てるべき日や捨て方といったルールが必ずある。今日なのか、明日なのか。そのまま捨てて良いのか、あるいはガスを抜いてからなのか。社会に出てからの人間関係にも同じように当てはまる、と物騒な書き出しになってしまった事をご容赦願いたい。

私は波風を立てるのが嫌いだ。特にこの先長い時間付き合っていかねばならぬであろう人間関係に対しては特に繊細に物事を考えてしまう。あれを言ったら喜ぶ、これを言ったら嫌がる……そんな事を考えながらまた次の機会に顔を合わせていく。こんな性格が他人に知れてしまうと、「素直に生きると楽だよ」とアドバイスをくれる『達観者』がいるのも世の常。自分に素直になった結果として『トラブルを起こしたくないから当たり障りのない性格を作ると楽』という生き方に至ったんです、と言い返してしまえば全て終わるのだが、結局それもトラブルの原因になるので「なるほど〜」などと適当に考えた無難な返事でその場をしのいでいる。

だがそんな事を思いながらも、私は本来「必要ない」と思ったら全てを消してしまう側の人間だ。それは自分で良く理解している。連絡先も、頂いた物も、本人が写っている写真も、まるで私の人生に最初からいなかったかのように消してしまう。それが原因でまた一悶着なんて事もあるにはあるが、一区切りつけるには十分すぎる行動だ。いくら波風を立てたくないからと言っても、私の心の中だけでずっと波風が立つような事は望んでいない。嫌な事を我慢し続けて慢性的に精神に悪影響を及ぼすよりも、関係の幕引きに歩を進める事が出来るのはとても大事だろうと自分に言い聞かせている。

そもそも何故全てを消してしまうという行動をとるのかと言えば、その人と過去にあった『どうしても許せない出来事』をまるで昨日の事のように思い出してしまうからだ。それが無限に保存され、無限に積み重なり、無限のストレスを生む。これを私は憎悪の再生可能エネルギーと呼ぶ事にした。大概の事は許せるが、一度でもこの資源(と呼ぶべきなのだろうか?)が私の中に入ってきてしまうと『私自身の評価』が表に出てしまい、かつ再評価が難しくなってくる。一度ゴミだと思ったら、もう「まだ使えるかも」と思えず手元に置いておきたくないからだ。これこそが理性で抑える事の出来ない私の人間としての甘さで、そんな不必要な熱があるからこそ私を私たらしめる。

私の生活空間にきっとあの玩具は合わなかったし、今日は間違いなく捨てるのに絶好の日だった。あの不快感は間違いなく私を成長させてくれたし、自分を見つめ直す良い機会になった。まぁ、感謝は出来ないが。

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