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教示は銀、独語は金、黙る姿は金剛石

どうも、ゴリ松千代です。


喜怒哀楽。古の賢人が簡潔にまとめたように、これらは直情的なものだ。感情が高ぶるのに比例して、外へ漏れていくエネルギーも大きい。感情の奴隷である。

昨今のSNSは多種多様な上、情報の発信も収集も容易であり、人の考えや議論に直接触れる機会も多い。そんなやりとりの中で最も露呈している感情、それが『怒り』だ。私自身を含め、どうしてこうも見知らぬ他人に対してそれを向けられるのだろう。私はそれを注意深く観察する事にした。


何が目につくんだ、ゴリ松千代

常識の差異への怒り

他人だろうが親だろうが双子だろうが生きてきた環境は違うもの。これまでの人生の中で誰と過ごし、何を見て、どう反省してきたのかを知る術は無い。出来上がった自分だけの『許容出来る常識の円』の外へ出ていたからといって、他人を常に咎められるかと言ったら当然そうではない。

そうやって「私がこう言ったんだ、こう返してくれるだろう」「私がこれをしてあげたんだ、こうしてくれるだろう」という台本を用意してしまうから、違う反応が来た時に違和感を覚えてしまい、最悪の場合怒りへと向かう。社会で生きていく上で自分の中に定めた規律が多いからこそ他人に厳しくなるのだ。

「私ならこう言うのに」「私ならこうするのに」ではなく、向こうは向こうでそういう人(これは決して見下す意味ではない)と理解し、その上で相手の意図を極力善意として汲み取る事が肝要だ。悪意へ思考を巡らせても、今後それ以外の場面で「これは自分への攻撃なのでは?」といった余計な被弾を自分で増やすだけだし、それを学んで吸収したとて武器にしかならない。せいぜい自分の中に「これを言ったら傷付くんだな」という禁止カードを制定するくらいか。


恐怖(知らぬ物、理解出来ぬ物)への攻撃

私が以前本屋を悠々と歩いていると、店員イチオシと銘打った一冊の本に出会う。タイトルこそ出さないが、子ども向けの怖〜いおばけの本だ。パラパラと流し読みさせてもらうと、なるほど確かにドキリとするようなおばけの顔が描かれていた。ひとつ残念に思いながらも納得だったのは、まだ本棚に並んだ状態だというのにおばけの顔がビリビリに破られていた事だ(当然店員に知らせた)。

そう、過度な恐怖心は防衛本能を攻撃へと向かわせる。時折良い年した大人がテーマパーク内のおばけ屋敷で暴力事件を起こしてしまうのも恐らく同じ事なのだろう。暴言や暴力といった他への攻撃はマウントだけでなく、こういった『知らぬ、理解出来ぬ』を根源としたものも多い。はるか昔から、理解出来ない物は敬遠されたり、根拠のない理由をつけて攻撃されたりしてきた。政治や科学、自然現象……詳細を話してしまうとキリが無い上に、刺さる人間が出てくるのでやめておくが。

理解出来ないのであれば調べれば良いが、『理解しやすい』ものに飛びついて『理解した気になる』のは絶対に正しくない。要点をまとめた文章というのは、発信した人間が最も伝えたい部分はシンプルに分かりやすく、そのために誇大化されている"場合もある"事と、伝えなくて良いであろう、もしくは伝えたくないから切り捨てられた情報が"必ずある"事を頭に入れておかねばならない。

誤解されたくないが、「その通り!政府は何かを隠している!」といった陰謀論者の類ではない。『真実を知った気になっている大きな声の一般人』に付和雷同するのではなく、『明確な実績のある専門家』による情報源、出典を貪欲に求めろという話だ。情報の取捨選択はそこから始めなければ。……まぁ、これを読むべき人間程こういったお説教は聞かないだろうが。


上書きするための攻撃

エスカレート、ヒートアップすると最終的にこうなる。その正否や真偽は問わず、相手の知識を書き換えたい、相手の常識や人生にダメ出ししたい人間がいる。攻撃する事で自分の思想を肯定、正当化する事も兼ねられるからだ。

別な記事で少し触れたのだが、私は政治に関する指摘に対し暴言と暴力で応えられた過去がある。「◯◯って法案が可決されると日本は宣戦布告が出来るようになるんだよ」と自信満々に話題を振ってきたので、ほんの少しつついたところ大惨事だ。正論は時として人の心を殺してしまう。今でこそ笑い話だが、真に騙されやすい人間というのはこの世界に存在する。

あなたが見た「さすがにネタだろ」と思いたいそのSNSアカウント、『本物』だと思って遠巻きに見ておいた方が良い。


どうすりゃいいんだ、ゴリ松千代

見ない

見なけりゃいいんだそんなもん。発信力の強さにあてられて疲れてしまう人、もしくは理解力や判断力に乏しくてすぐ流されてしまう人間は、SNSでの応酬を見る事など避けた方が精神衛生上よろしい。流れを無視して切り取った国会のあの動画、議論ではなく口論や一方的な口撃になってしまっているあのインフルエンサー……話者の真意や話の前後も同様に重要なのだから、自分で調べられないのなら見るのをやめるべき。

「忙しくて調べる時間がない」と大きな声で言い訳するような人はそもそも基礎知識が足りていないので、議論の場に立つ(怒りで声をあげる)資格がそもそもない。中途半端な知識で偏った思想を語るのは、無能な軍勢として数を利用されるか味方の足を引っ張るかの両極端な結果を招きかねない。ただ、「あいつが何言ってるか分からん!」という怒りなら中立寄りだし、自分の無知に向き合った上で他人にも周知してくれているから比較的健全(これは皮肉です)。

『臭いものには蓋をする』の考えが嫌なのであれば、自分の感情を抑え理性を盤石としたい。見たいものを見るだけでは健全とは言い難いので、相手側(議論の当事者でないなら自分と違う考え方サイド)の言い分も『相手側に立って』考え、そして考えるのを止めない事。知りたいのなら調べる、分かりやすい情報に飛びつかない。もし自分に当てはまる気がしたら「エコーチェンバー現象」の意味を調べる所から始めてみてはいかがか。


言わない

分からなければ一人で語る事すら黙っていた方が良い。分かっていたって他人に指摘しない方が良い。他人の考えを変えるための努力は自分の人生を蝕む事になる。相手にも思想の自由があるし、今後の人生は当人が決める事なのだから。自分の考えを述べて静かで建設的な議論とするなら当然有意義だが、そんなにお上品な会話が出来るのは極めて一部の人間だけ。

仮に100%中立を貫いた客観的な意見だったとしても、相手がそれを受け入れる度量も必要だ。自分と相手の意見が乖離していればいる程、相手のプライドは深く傷付くだろう。そしてまた相手に生まれる怒りの感情、そんなリスクはいちいち負っていられない。そいつには勝手に、そして存分に歪んで頂こう。その際は酒の肴としつつも一定以上の距離を置く事。


効かない

自分がどう気をつけても、こちらに向かって感情を表に出してしまうような精神年齢の低い人間は一定数いる。全ての暴言、暴論に屈する事はない。棚上げしてくるような未熟な人間からの一方的な説教など以ての外で、わざわざ効いてやる必要がない。どこかの誰かも歌っていたが、そういう人は無意識のうちに快楽にすら思っている。それでも自分で受け入れられる部分は噛み砕きつつ、根拠の薄い主語クソデカ理論を御大層に語っていると判断したなら全部無視するべき。

そんな事があった場合、「自分は間違っていない」といった自己肯定だけでは自分を慰めきれない日もあるだろう。他人に愚痴るのもまた一興かもしれないが、やりすぎは「自分もここ以外で愚痴られているかもしれない」と負の連鎖になりかねないので気をつけたい。『適度』なガス抜きが大切。


と、極力冷静に書き殴った。ここ最近で目についたというお話だから、当然怒りの種類にも色々あろう。これだってまとまりもなく勢いに任せた字の羅列で、読者の考えを書き換えるつもりは毛頭ない。ただ少し、ほんの少しでも誰かの与える怒りを抑えたり、受ける怒りを和らげたり出来たらと切に願うばかりである。

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