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送信取消による弊害、振り返りの意味

どうも、ゴリ松千代です。


藪から棒な上に私事で申し訳ないが、編集中で未公開なnote記事がだいぶ多くなってきている(この「だいぶ」はまぁ読み手の想像力に任せるとして)。ただ多くなってきているだけならまだしも、時間が経ち過ぎて「この時の考え方は少し未熟だな」なんて思ってしまう事もある。これが考えを書き留める上で最も良くない。そんな話題で一つ書けそうだな、なんてクッソ激甘な考えで今日は何の自己ナビゲートもなしに自分と向き合ってみたいと思う。お付き合いください。

私は普段、メッセージアプリやSNSで度々『削除』や『送信取消』をしてしまう。理由は誤字脱字などの訂正なのだが、もしここで消した文章が『間違いの訂正』ではなく『羞恥心』であったなら、全く自分の糧にならないので極力したくない。精神的に未発達な自分の経験や持論を振り返れなくなるからだ。それがどういう事なのか深掘りしていく。これが当記事のメインテーマという事にした。今。

冒頭でも少し触れたが、「幼稚だ、公開前に消そ」なんて愚か過ぎる。「自分は今こう思ってるぞ」と、まずは未来の自分宛にではないが、一旦は今の脳味噌の現状を着飾らぬ自信と勢いで書き殴り、そして殴り抜いてしまうのが肝要。その当時の若さ故の考え、そこに至るまでに巡らせた思考や経緯が確かに存在していたというある種のタイムスタンプが恥ずかしげもなく晒されている状態。これ。で、後で見返して「浅いな……今の考えはこう!」とまた新しい記事を力任せに刻みつける。自己肯定では出てこない、自己否定での新説。哲学。

ゴリ松千代がメッセージの送信を取り消しました

「うーん、今とは方向性が違うけど編集中だったし同じノリで書き加えて公開しとくか」だと時系列的にも時間的にもおかしいし、改心の速度が異常だ。すぐこの後それをひっくり返す記事を公開するハメになってくる。いや、しないが。何やかんや「新しい考え方の記事は少し時間あけよ……」みたいな感じになる。やらないから分からんが。これでは全くもってダメ。こうなると削除してしまうしかなくなる、と思う。まだ自分の考え方にそこまでの劇的な変化が訪れていないのだけが救いだ。そうなる前に公開しなくては。『送信取消』は許されない。

自分の経験として活かすには「やっちまった事」を覚えていないといけない。しかし、その全てを覚えておくのは正直苦労と面倒の抱き合わせだ。脳内ストレージが相当量あるとは言えすぐに引き出せるかと言うとかなり無理があるし、だからこそメモアプリだったりnoteだったりをクラウドに見立ててブチ撒けておいた方が精神的にも肉体的にも楽である。

見返す理由は失敗への反省だけではない。ふと読み返した時に改めて「あ、確かにこの時ってこう言ってたけど正しかったな」「ここの言い回しすご……本当に自分か?」と思う事もある。自分自身ではないようで自分自身だったそれを褒める事は回り回って自己肯定、そして自信にも繋がるだろうし、後から客観的に見る事が出来ている気がする(その時点で主観だが)。言った、もしくは書いたその時は割と熱くなっていて冷静ではない事が多々あるため、こうしてnoteという蔵で熟した青臭い記事を後から味わうのもまた粋なのだ。

何にせよまずはやっちまう、やってしまわないといけない。取り消した所で「あ、こいつ取り消したな」という事実は取り消せなくなるのだから。それが例え見えない場所で、自分にしか分からなくなったとしても。

ゴリ松千代がメッセージの送信を取り消しました

ゴリ松千代がメッセージの送信を取り消しました

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