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SIDE:GOLD 04-2


 その日は本州全域が荒れ模様で、日本海側には季節外れな雷も観測されていた。東京においても、朝から寒さを骨身に染みこませるような霧雨が、濛々と景色を煙らせている。
 屋外での集団行動には最悪のコンディションだったが、大仕事に取りかかる、という士気の高揚は、客観的な事実などものともしない。出動を控えた《法務庁法制第四局》の局員たち、育ちも性格も様々な朝食の場は、どこまでも慌ただしく騒がしかった。
 呑気に遣り取りする者、
「伊与谷君~、そこの塩ちょうだい、塩~」
「はい、どうぞ。なんで君は、銀シャリと見れば塩をかけるんだ?」
 食事に舌鼓を打つ者、
「今日の飯も、実に美味い」
「うむ! チカ殿の味噌汁は絶品じゃ!!」
「そ、そうだねえ……管理人さんのお新香も美味しい、よ」
 仕事について話す者、
「今日は道場稽古もないし、メシ食ってお出かけって最高ッスねえ!」
「普通は出動の方を嫌がるものですが……」
 狭い食堂に集う一同も、今は青服や剣を身に帯びない、どこにでもいる若者の風である。
 彼らの《法務庁法制第四局》局員という肩書きは、あくまで法制上のもので、実際に法務庁勤めはしていない。日常の業務を行う事務所、寝泊まりする生活空間、全てが椿門に豪奢な威容を見せつける元・迎賓館の一角……というより、片隅の棟にあった。
 勝手口にしか見えない簡素な玄関の横には、初衣泥の達筆による『青衛舎』の表札こそ掛かっているが、実態としては迎賓館専属使用人の事務所、生活空間だった建物である。本館の方は未だ使用許可が下りていない(今の彼らの員数規模だと持て余すことは分かりきっているが)。
 食堂は外扉から直接中に入れるほど明け透けで、隣り合う炊事場もカーテンによる仕切りがあるのみ。賓客用の厨房とは分けられた、使用人のためのごく簡素な設備だった。
 三角巾に割烹着の初衣チカが、その炊事場から、ずい、と踏み出す。
「今日の出動は、能力者との長期戦になる可能性大です。しっかり力を付けておくように!」
 大喝に負けない返答が一斉に、わっと返った。
 うん、と頷くチカの後ろから、老婆が優しく声をかける。
「こちらはもう大丈夫ですから、チカさんも召し上がって下さいな」
 押しつけるでもない自然な挙措で、朝食を載せたお盆が手渡された。
 この老婆は、泥が称するところの『青衛舎』だけでなく、迎賓館全体の管理人である。
 戦中から訪客の絶えた迎賓館を守ってきた人物で、同僚でもあった夫が特別高等警察による獄死を遂げて以降も、粛々淡々と業務を継続している。僅かな用人たちを率いて広大な迎賓館全体を美しく保ち続ける、泥も感嘆する不思議な技能の持ち主だった。
 チカは敬意を払う女性に一礼して、お盆を受け取る。
「はい、お言葉に甘えます」
 彼ら《法務庁法制第四局》の中で、初衣夫妻のみが近場にある自宅からの通いである。今日のように早い時間に出動のある場合、普段は家で済ませる朝食をこちらで取ることが多い。チカは食べるだけでなく管理人の調理も手伝うので、彼女が来る日の朝食は一品増える。
 若者たちの士気が、大いに上がる所以である。
 そんな彼らの後ろを通ってチカは一番奥の指定席、泥の向かいに座った。
 既に彼の朝食は平らげられており、飯粒一つ、味噌汁一滴、残っていない。お盆は脇に退けられ、二人の間には分厚い本の山が積み上がっていた。
 チカは少々面食らう。
(なんの作業だろう)
 出動前に片しておく仕事があったとは聞いていない。
 その山越しに、泥が覗くように伸び上がって顔を見せた。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
 律儀な声かけに恬淡と答えてから、チカは尋ねる。
「泥さん、この本は?」
 よくよく見れば、いつもの政府文書の束や綴り合わせファイルではなく、漢詩集や古典の類いである。どうやら迎賓館の書庫から持ち出したものらしい。
「我が《法務庁法制第四局》にも、そろそろ紐帯を明確な形で表す所作なり口上なりが欲しくて、諸々文献などを当たっているのですが……どうも綺麗に纏まらないのですよ」
 本の山向こうにある困り顔が、チカには容易に想像できた。のみならず二段三段深く、薄霧のように揺蕩う懸念を見抜くこともできた。
「今日の出動に、気を散らすような心配事でも?」
 今さら見抜かれて驚く間柄ではない。
 むしろ見抜かれた喜びと共に、泥は真情を吐露する。
「計画も手配も万全でしょう。しかし、なぜか、片せる気がしない・・・・・・・・
「あの《赤の王》が現れると計算が狂う、という話ですか?」
「近いが違う、としか言い様がありませんね。事が《王》に及ぶと、かの“石盤”が司る究理もきっちり定まらなくて……とても、気持ちが悪い」
 そんな、夫の声に滲んだ超人の苛立ちを、
 妻は一言で、人間の地平へと落着させる。
「いいではありませんか」
「いい、ですか?」
「あの“石盤”や《王》の力も、浮世にある物事の一つには違いありません。他と同じく、片付かなくて不機嫌になることくらい、あってよいではありませんか」
「……」
 本の山向こうで、意見を検証する泥の分別臭い顔が、チカにはやはり容易に想像できた。その想像通りの、探り探りな声色が返ってくる。
「そういうものですか」
「そういうものです」
 チカは敢えてあっさり、言い切った。
 少し間を置いてから、泥が付け足す。
「……納得は出来ませんが、了解しました。チカさん」
「なんでしょう」
「せっかくのご飯が冷めてしまいます、早く召し上がれ」
 チカは三角巾を外して、笑顔で掌を合わせた。
「はい、いただきます」

 その名無しの諜報機関は、東京都の七釜戸町に居を構えていた。
 施設の前身は、基督教系の国際総合病院である。立派な鐘楼まで備えた白亜の屋舎は、運良く空襲の被害を免れたため、終戦直後には貴重な医療施設として広く患者を受け入れていた。
 それが、いつ頃からか『感染症防除対策研究所』なる偽りの看板を掲げ、分厚い鉄扉付きの門を構え、忍び返し付きの高塀で囲む、諜報機関の本拠地、兼研究施設と化している。
 今日においては、化していた、と言うべきか。
 彼らを成立させていた職権の全ては、正式な通達の元、失効した。
 した、はずだったが、屋内では今なお残党と化した者たちが動き回っている。
 喧噪は最上階、西端の部屋において特に顕著だった。機関がこの地に人員と機能を集約した際に設けられたそこは、内部における分析と命令、外部に向けた受信と発信、双方を司る指揮所である。
 窓は分厚いコンクリートで塞がれ、外からの風も光も通さない。壁には関東圏を描いた電機パネルが据え付けられ、監視対象の動きを表示し続けている。その表示を操作する者、操作のための情報を届ける者、情報を外部から受け取って伝える者、さらにはそこから派生する報告と調整に走る者らが、室内の逼迫した空気を形作っていた。
 彼らの後方、一段高い床からは、軍人然としたアメリカ人が矢継ぎ早に指示を出している。
「発電機は全部動かしておけ、いいな、全部だ!」
 失効前の・・・・肩書きは制外諜報機関長、つまりは七釜戸の指揮官である。
「厚木の『出戻り』との通話は絶対に切らせるな! 実際に争乱が起きれば、奴らも加わる機会を狙うはずだ! どんな些細なデータでもいい、情報を逐一送って刺激するんだ!」
 その様子は、憤怒と言えるほど雄々しくはなく、狂騒と言えるほど猛々しくもない。いわば、追い詰められた焦りから来る妄動だった。
「横須賀の『痩せっぽち』はまだ出ないのか!? 一言でもいい、答えるまで呼び出しを続けろ! 受け答えの事実さえあればCIAと国防総省を共犯に巻き込んだ交渉ができる!」
 と、そこに機関員の一人が、新たな情報を記した報告書を持ってくる。
 一読した機関長は、これを乱暴に放り返した。
「天候情報など持ってくるな! 雨が雪になるからどうだというんだ!? 今日の我々は、今までとは違う! ここで迎え撃つ立場なんだぞ――、ッ!」
 喚いてから、機関長はハッとなる。
 指揮所にいる全員が、不安げな面持ちで彼を見ていた。
 諜報機関としての彼らが今までやって来たこと……情報蒐集や対象の捕縛、隠蔽工作や非合法な実験等とは全く次元の異なる行為を、今からやろうとしている。やらされようとしている。
 つまりは、彼らを成立させていた制度や組織、引いては国家機構に弓引く行為を。
 たとえアメリカ本国の後ろ盾を得られる(と機関長は強弁している)とはいえ、軽々に乗るには危うすぎる博打だった。それでも、未だ彼らが四散せず、機関長の下で立て籠りを選択するほどの結束をギリギリ保ち得ているのは、まさに彼ら自身の、諜報機関員という立場による。
 即ち、
「いいか、かつてない現象の機密を知る者が用済みになったんだ。このまま降伏して総司令部に身柄を拘束されてみろ、末路など分かりきっている!」
 もはや何度目かという機関長の主張アジに、全員が消極的な同意をしているためだった。
「我々に押しつけられた様々な裏仕事を罪状に書き連ねられて、本国に引き渡される……良くて送還の上で収監、悪ければ我々自身が研究のモルモットだ!」
 そう煽り立てられてなお、降伏を受け入れられるほど清廉潔白な者は、この組織にはいなかった。彼らの分を超えた暴走の燃料は、この「操作し研究する側から滑り落ちたら、立場が逆転してしまう」という恐怖なのだった。
 後ろ暗い行為に日々を費やし、かつ行為への自負心すら持っていた諜報機関員たちは、総司令部が彼らをそこまで重要視していない、むしろ軽んじているからこそ踏み潰そうとしている、余計なことさえしなければ処分も軽くなる、という発想を持ち得なかったのである。
 全く仕方がなく、その気配を隠しもせず、彼らは自分の仕事へと戻る。
 部下を抑え付けた機関長は、疑念と敵意に満ちた視線を、壁面の電機パネルに転じた。
 地図上で点滅する電球は、中心である七釜戸へと近づく車列の位置を示している。残された時間は、それほど多くはなさそうだった。
「ちっ」
 舌打ちをしてから、背後に控えていた二人に新たな指示を飛ばす。
「コルト、ドクターの迎撃要員の人選に付き添え。とにかく質より頭数だ、いいな?」
「はっ」
 その一人、トマス・コルトは敬礼で答えつつも、声や動作には張りがない。
 先日の作戦失敗にもかかわらず、また機関長に《王》らの危険性を訴える換言を呈しつつも、彼は実行部隊の長に留まり得ている。これは、組織内で彼以上の人格と能力を備える者がないためだった。つまるところ、先の作戦は彼ら七釜戸にとって本気も本気であり、かつ実働部隊の主戦力を失ってしまう大敗だったわけである。
 コルト自身、機関長がなりふり構わなくなるほどの大敗を喫したことや、予想通りとは言え協調の説得も失敗したことに、忸怩たる思いを抱いてはいたが、身に澱む倦怠はそれら組織への負い目だけが理由ではない。七釜戸が無意味な反抗に突き進んでいることや、そのために日本人のストレインを駆り出すこと等、尤もらしい筋論にも拠らない。ただ、あの《赤の王》雲野征鷹との戦い以降、心の底から一つの言葉が浮かんでくるためだった。
(なにをやっているんだ、私は)
 身の置き所のない『アメリカ人の能力者』として、七釜戸の諸々の行いへの加担者として、他にやり様はなかったはず、理解も納得もしているはず、である。それでもなぜか、彼はその言葉に囚われ、考えるほどに心根の力を失ってしまうのだった。
 逆に、
「行くぞ、コルト君」
 命令を受けたもう一人、ドクターと呼ばれた初老の日本人が、白衣を翻し部屋を出て行く。この窮地においても意気揚々と、枯れ枝のような足で大股に廊下を先導する。
 この人物は、旧第九陸軍技術研究所(九研、登戸研究所とも)から戦犯訴追の免除を条件に引き抜かれた科学者で、七釜戸におけるストレイン研究の第一人者だった。初期段階の「観念的過ぎてなにを意味しているのか分からない」状態から一応の仮設を立て、ストレインによる戦闘部隊を編成するまでに体系・理論化した解析チームのリーダーでもある。
 コルトには彼の態度が理解できなかった。
 明らかな窮地にも、常の様子と全く変わるところがない。これから始まる戦いへの実感がないだけなのか、常に職務への精励を忘れない強固な精神の持ち主なのか……あるいは自身の研究成果があればどんな結果に終わっても身の安全は保証されると楽観しているのか。
 困惑を余所に、ドクターは自分の庭たる屋舎を進み、程なく薬品臭漂う区画へと踏み入る。
 そこは階層ほぼ丸ごとを連なる小部屋で占める、ストレインの収容施設だった。
 凶暴、あるいは臆病すぎて使えない者。強い、あるいは弱すぎて使えない者。分類しようがない者、それらの調査や判定が済んでいない者等々を、とりあえず滞在・・させている。主戦力を失った七釜戸に残された最後の切り札、後方からの銃口で従わせる『緊急事態下の迎撃要員候補者』たちである。
 常なら、能力の用途や人格の適性等の判定を厳重に行ってから協力を要請・・・・・するのが決まりだったが、まさに非常時たる今日は、その建前を気にしてはいられない。
 分厚いアクリル板越しに注がれる、無数の恐れと恨みの視線を気にも留めず、ドクターはどんどん進んで行く。その傍ら、部屋番号の下にあるボタンを、次々に押していった。
 ボタンが押される度に、赤かった表示灯が緑へと切り替わる。それは『動員可能』の合図であり、すぐ後に護送班が階下へと身柄を移す手筈になっていた。
 コルトは、ドクターの呟きを耳にする。
「311号、コモン、殺傷能力あり、傷害歴あり、良し。312号、コモン、殺傷能力あり、傷害歴なし、良し。314号、コモン、殺傷能力なし、殺人歴あり、良し。315号、ベータ、殺傷能力あり、殺人歴あり、良し。317号、コモン、殺傷能力なし、傷害歴あり、良し……」
 なにを参照するでもなく平然と、どころか嬉々として他者への判定を下して行く様に、どこかおぞましさを感じて、彼は目線を逸らした。
 と、そこに、
「322号、コモン、殺傷能力なし、傷害歴なし、し」
 意外な判定が下る。
 ボタンを押されなかった者がいた。
 奇妙な救いを感じたコルトは、322号室を見やる。
 見やって、思わず尋ねていた。
「ド、ドクター、このは……?」
 既に数歩先の判定をしていたドクターは立ち止まり、興薄げに答える。
「ん? 322号は静電気レベルの発電能力。体格も体力もないから、役には立たんよ」
 その判定は、全く正しかった。
 怯えに身を竦ませ、部屋の真ん中で座り込んでいるのは、年端もいかない(コルトには東洋人の、しかも痩せこけた子供の年齢は測り難かった)女の子だった。憔悴しきった俯きがちな顔には、泣きはらした跡がありありと見える。
「この子の親は?」
「浮浪児だ。照会はしたが身寄りはない。米軍の輸送車両を襲ったストレイン集団の逃げ遅れ、と報告書にはあったな。327号、殺傷能力あり、殺人歴あり、良し――」
 コルトの問いに返しつつ、ドクターは判定の歩みを再開する。
 子供のストレインは、これまでにも幾例か確認されていた。彼らの大半は、人目を憚り閉じ込められるか、化け物として追われるか、たちの悪い大人に使い潰されるか……いずれにせよ当今においては、常の子供よりさらに悲惨な境遇に置かれているという。
 七釜戸は基本的に、彼らを利用の対象とは見ていない。その理由は人倫や情愛では無論なく、子供の能力者は総じて能力が微弱で統計調査以上の利用価値がない、という身も蓋もないものである。それでも一時期、このような子供たちこそ我々が秘密裏に保護すべき、と唱える者も僅かに出たというが、現状としてはこの有様だった。
「……」
 紙面の文字列としてではない、生の人間としての子供に接したコルトは、思わずポケットを探り、板チョコレートを取り出していた。いつもは街角で情報を得るための餌だったそれを、食事の差し入れ口から投じる。僅かに目線を上げた女の子に、
「頑張りなさい。もう少しすれば出られるかも……出られるでしょう」
 精一杯の作り笑いを向けつつ、明瞭な日本語で言った。
 女の子は、言葉の意味は分かっても、その意図するところが分からない様子である。身を固くして、怪訝な涙目を向けるのみだった。
「コルト君、なにをしているのかね」
「ああ、いえ」
 先を行くドクターに答えると、作り笑いに重苦しい不純物が混じってしまう。
(本当に、なにをしているんだ、私は……)
 自分の言葉と行為を置き捨てるように、コルトは足早に去った。
 残された女の子は、チョコレートに手を伸ばすでもなく、ただ顔を伏せて呼ぶ。
「イクちゃん、助けて……」
 自分を、自分たちを助けてくれる、とてもとても強い《女王》の名を。

 東京西の郊外に、送電塔が列を成している。暗雲と霧雨の下、寒さに打ち拉がれる卒塔婆の群れとも見えるその頂に、一人の少女が立っていた。
 美丈夫の屹立ではない。
 汚れ顔も幼い、前傾姿勢である。
 年の頃は十前後、痩せた小柄な体躯にボロボロの雨合羽を纏っているが、なぜか頭巾は背に降ろされている。顎を軽く前に突き出す様は、伸び放題のざんばら髪と相俟って、獲物を探る狼とも見えた。前髪から覗く両の目は閉じられている。
 安らかな眠りではない。
 硬く瞑った、集中の表情である。
 と、
「!」
 一閃、電光がその足下で弾けた。
 少女は驚きも恐れも見せず、ただ目を開ける。
 大きな眼をギョロリと、電線の伸びゆく地平から地平に巡らせた。
「みつけた」
 唸るように呟く少女の意識野には、巨大かつ複雑な回路図が構築されていた。振幅と明滅で綾なすそれは、足下の電線を始めとする、一帯の伝送網の模型。電流ならその強弱、通信ならその内容までをも、彼女は把握する。
 見つけたのは、通信に過ぎった一つの名前だった。
「ミヤちゃんのこと、だれかがビリビリにのせた・・・
 人の名前と特徴、力のなにかしらを、今も延々と送り続けている者がいる。その中に、彼女の探す友達の名前が、確かにあった。他の情報が、進駐軍に連れ去られた友達に間違いないことを証明している。
 少女の前傾姿勢がさらに屈んで、跳び出す力を溜めた。
 ただ、
「どっち、だろ」
 東から通信を送る側、西で受け取る側、どちらに友達がいるのかが分からない。さらに力を溜めつつ、その通信だけに意識を絞って、さらに探りを入れる。
 殆どが聞いたこともない言葉だったが、声に乗る感情と言語の組み立てから大意を推測するのは容易かった(彼女はタイイやスイソクという言葉自体を知らないが)。
 送る側は必死に救援を求め、しつこく食い下がっている。
 受け取る側は乗り気ではないらしく、殆ど返信をしない。
 友達がこれら通信の中でどういう位置にあるのか、少女は焦れつつも懸命に探る。
 やがて東から送られる通信の中に、
『早くそちらの能力者をありったけ寄越してくれ!』
 という声が乗った。
 そちら、つまり西で受け取る側に、たくさんの能力者がいる。
 たくさんの能力者、つまり連れ去られた友達もいるに違いない。
 そう、何事も熟慮ではなく反射で決める少女は、見立てを誤った・・・・・・・
 少女は顔を西に振り向ける。
「みんな!!」
 咆えるような叫びに応えて送電塔の下、一面の草原から数十の影が、むくりむくりと起き上がった。いずれも同じ年頃の、あるいはより幼い、痩せこけ薄汚れた子供たち。それら削り込んだような鋭い面つきには、少女と同様の獰猛な力感が宿っていた。
 誰からともなく、手が挙がる。
 野原にいる全員の手が挙がると、鉄塔の頂きにある少女も倣う。彼女だけは、ただの挙手ではない。天を刺すように、人差し指を突き上げていた。
「おちろ!!」
 瞬間、雷鳴を連れて、暗雲から稲妻が降り下った。
 群れの頂きで指を突き上げた少女から、その下で手を挙げる子供たちへと、稲妻の爆発的な力が注ぎ込まれ、全員を緑色の火花と放電で結ぶ。
「《ビリビリ団》、しゅっぱつ!!」
 そうして少女は、溜めに溜めた力を振り絞って、駆ける。
 空中に差し渡された電線の上を滑るように、飛ぶように。
 地にあった子供たちも、結ばれた力に引かれ、共に行く。
 維持を打ち砕き安定を掻き乱す《緑の王》角杙つぬぐいイクと《ビリビリ団》の、どこまでも見当違いな……しかしその分だけ騒ぎを大きくする、嵐のような出陣だった。

 殆ど氷雨となった荒天下、薄暗く陰気な朝を、『感染症防除対策研究所』の近隣住民が避難してゆく。なけなしの家財を大八車に載せ、また風呂敷包みに背負い、家族と手を結び合って悄然と、指定された避難先へと歩いてゆく。今どき疎開か、との愚痴も方々から漏れ出たが、総司令部による布達とあれば否やもない。
 一応、その総司令部からは尤もらしい、
「感染症サンプルの搬出に伴う予防措置である」
 との通達が広く強く出されていたが、それにしては多数の警官隊に進駐軍まで駆り出して、厳重な封鎖線を築いている。誰もが、堂々と秘された真相を勘ぐらずにはいられなかった。
 また復員兵の中には、この封鎖線は内側からの動きに備えている、と看破した者もいたが、同時に警備に当たる警官や米兵の真剣な面持ちにも気付き、関わるまいと黙過していった。
 これら当時から様々な憶測を呼んだ避難、および流れを遡ったジープとトラックによる人員の展開が完了したのは正午前。各所での焚き火まで許可されたほどの寒さと雨の中だった。
 七釜戸が沈黙の内に立て籠もる感染症防除対策研究所。
 近隣住民の評判もすこぶる悪い、このコンクリートの高塀で鎧う白亜の屋舎を、さらに警官と米兵が包囲する。雨中にも整然と隊列を組み、また積み上げた土嚢に銃身を乗せる彼らは、しかしそれ以上動かない。包囲網を築き逃亡者を捕らえることだけが、彼らの役割だった。まさに前夜、緊急で開かれた作戦会議において、そう定まった。
 同じく定まった、突入および制圧の実行に当たる人員は、紛糾する会議を片した《青の王》初衣泥率いる《法務庁法制第四局》、初衣泥自身を入れても僅か九名の能力者のみである。
 その九名が揃って番傘を差し、研究所の正門前に並んでいる。
 そわそわ動かす者もいれば微動だにしない者もいる番傘の列は、執行の形式を整えるための儀式を見遣っていた。総司令部発の令状を手にした参謀第二部からの使者が呼び鈴を押す、見た目にはささやかな、しかし決定的な宣戦布告でもある儀式を。
 呼び鈴への返答は、ない。
 使者は、構わず通話ボタンを押しながら書面を読み上げる。従わざる場合は執行、つまり強制的な接収に取りかかる、との口上を終えると、脱兎の如く門前を駆け去った。
 使者は番傘の列の中心に在る《青の王》の前に立ち、敬礼とともに告げる。
「報告! 制外機関の返答なし! 連合軍最高司令官総司令部より要請! 違令明白に付き、法務庁法制第四局には迅速なる執行に当たられたし! 以上!」
 泥は傘を畳んで足下に置くと、折り目正しく答礼した。
「法務庁法制第四局、承りました」
 使者が去ると、番傘の列が次々と傘を畳んで足下に置く。
 雨粒を制帽に受けながら、泥は研究所の全容を見渡した。
「交渉を長引かせて時間稼ぎをするつもりは、ないようですね」
 盤面の観察に入った夫の読みを、チカは会話することで助ける。
「彼らはこの絶望的な状況で、どんな勝ち筋を掴むつもりなのでしょう」
「そうですね。市街戦に持ち込む気なら、包囲が完成する前に打って出ているはず」
 妻との会話をニコニコ笑って楽しみながら、泥は即行で核心を突く。
「となると、作戦姿勢は迎撃で、標的は突入部隊……つまりは我々《法務庁法制第四局》でしょう。彼らにとって最大の邪魔者である我々を、早期に本拠地の内部で殲滅して――」
 両脇の局員たちが度胸に応じた反応を、各々僅かに返した。
 泥は笑顔のまま続ける。
「――既に腰を据えてしまった包囲部隊との膠着状態を作るのが狙い、と見ました。彼らが何より怖れているのは、厚木にいる能力者部隊の来援を阻止されることです。だから初手で、来援の対抗戦力たる我々を潰しておきたい。潰すことができれば、厚木を動かす材料にもなる」
 続ける内に、パズルのピースが次々集まり、対局者の思惑を組み上げてゆく。今朝方に懸念していた片せない予感や気持ち悪さは今のところ、ない。どこまでも明瞭に、読みは進む。
「援軍が到来すれば、包囲を内外で呼応して破り、東京における騒擾を引き起こす。然る後、総司令部か日本政府に撤兵を条件とした赦免の交渉を行う。そうして赫赫たる戦果と政治的な功績を手土産に本国へと凱旋する……まあ、最上のシナリオはこんなところでしょうね」
 そうして、笑顔のまま付け加えた。
「もちろん、実現は不可能ですが」
 不遜に傾く夫を抑えるべく、チカがさらに付け加える。
「その不可能をひっくり返す力を、相手も持っていることを忘れてはいけません」
「確かに、早計でした」
 神妙に頷きつつ、泥は一歩前に出る。
 号令の前触れとなる行為に、局員たちは改めて背筋を伸ばした。
 が、なぜか常の号令ではない、長口舌の説明が来る。
「今日の出動は進駐軍と警察機構、双方の命令系統を片して特異現象誘発保持能力者対応における全権を正式に委ねられた、我々《法務庁法制第四局》にとって記念すべきものです」
 チカを含む局員たちは、嫌な予感に襲われた。
 彼の殊更に筋道立てた説明は、『即座には承服し難いなにか』を理屈の面から動かすための、回りくどくも逃げられない誘導と決まっているのである。
「その、いわばお披露目の場である今……御見物の衆に、能力者犯罪に当たる気構えを証し、守るべき秩序の範を示す所作を、今朝のご飯時に思いつきましてね」
 案の定、即座には承服し難い、しかし逃げられない提案がやってきた。
「今後、現場で戦闘態勢に入る際は、決まった掛け声で順番に抜刀しましょう。私の号令に続いて各人、名前と抜刀の報告で応えてください。さあ、いきますよ」
 纏う空気は楽しげな指揮者のように、発する声色は厳しい上官として、《青の王》が号令する、
「――『総員抜刀』!」
「順番……」
 局員たちの注視を受けた副長、つまりは《臣》の先頭を切る羽目になった初衣チカが、頬を染めつつも号令に従った。背に担いだ薙刀を手に取るや、払った鞘を腰に差す。
「初衣チカ、抜刀!」
 聞き惚れる大音声と共に、抜き身の薙刀をぐるり回して石突を地に打ち付けた。
 その後背、全く泥の狙い通りに、包囲部隊から嘆声が漏れる。
 続いて、逡巡していた局員の一番端が、脇腹を肘で小突かれてようやく動いた。
「い、伊与田、抜刀!」
 今度は声も動作もほどほどなので、後背は静かである。
 良し悪し二人が出揃ったことで、局員たちも気負いなく続いた。
「六郷、抜刀!」
「葉木沢、抜刀~」
「え、えと、荷塚、抜刀!」
「穂泉抜刀ぉ!!」
「辺谷、抜刀ッス!」
「刀根山、抜刀」
 全員の抜刀を満足げに見届けてから、泥もゆるりと、しかし見事な挙措で白刃を現す。
「初衣泥、抜刀」
 その流れから自然と前に踏み出し、一歩後を局員たちが横列で続く。
 規則正しい歩調で前進する泥による、
「他にも、拡張高い前口上など鋭意創作中です。後日を楽しみにしていてください」
 提案その二には、なぜか誰も返答しなかった。

 執行の開始に伴い、研究所から延びる電話線が、各所で同時に切断された。地中に埋設された予備回線や電波通信機も備えているだろうが、処置の実効は問題ではない。先方の、無視という宣戦布告に対する回答、戦闘開始の合図である。
 続いて正門が、青い力を伴った薙刀の石突によって叩かれる。
 分厚い鉄扉が閂ごと拉げて、前庭の石畳へと倒れ込んだ。地響きの余韻が去ると、氷雨のさざめきだけが残る。玄関口へと至るまでの殺風景な前庭に、動きはなかった。
「見立て通り、屋外への戦力展開および屋内よりの狙撃なし。四十一手で詰み、というところですか。やはり、屋内に突入してからが戦闘の本番になりますね」
 泥は制帽の陰から周囲を窺う傍ら、最後の訓示を行う。
「本来ならば剣状光輝シュベールトを出して君たちの強化を行うところですが、例の《無色》を刺激したくはありません。素の実力勝負でお願いします」
 この九名で制圧は可能、という《王》の評価、
 この《王》の評価なら、という《臣》の信頼、
 双方が迷いなく歩を踏ませ、やがて前庭の中程で止まる。玄関の内や屋舎の両端、頂の鐘楼までを一望できる、盤面の観察には絶好の位置である。実際に目線を巡らせてから、
「まずは一手、観察地点に到達……以降の指揮を任せます。気をつけて」
 伸ばした背筋を曲げず屈めずチカに託し、
「はい。そちらこそ、存分の働きを」
 チカも前を見据えたまま泥に決然と返す。
 そうして、泥をその場に置いたまま、
「前進!」
 号令をかけたチカと共に横列は執行を再開する。
 一歩ごとに隊列の緊張感は高まり、やがてその最高潮、玄関口に八名は並び立った。かつて総合病院だった木製の二枚扉は大きく高く、かつ不気味な静けさを以て彼女らを出迎える。
 チカは副長として左右に目を遣った。
 誰もが緊張の大小こそあれ、尻込みはしていない。
 微か、満足げに顎を引いてから、《法務庁法制第四局》副長は鋭く号令をかける。
「突入!!」
「はいさ~」
「いきま、す!」
 葉木沢と荷塚が二枚扉をそれぞれ蹴りつけ、丸ごと内部に吹っ飛ばした。
 それらは床に落ちる前に、内部からの凄まじい銃撃で無数の穴を開け、粉々になる。
 侵入者どもを一網打尽にせんと、玄関ロビーに設けられたバリケードの向こうから拳銃のみならず自動小銃に機関銃までもが、無数の弾雨を浴びせかけた。加えて不可視の衝撃波や打撃斬撃までもが、雪崩れのように殺到してくる。
 それを真っ向から受け止めるべく、辺谷と刀根山が堅固な青い力の防楯を張った。
「おおっ、盾が丸ごと揺れるとか初めてッスよ!」
「やはり銃弾より『力』の方が衝撃は大きいな」
 足を止めて玄関口で守る彼らの左右、太い石柱の陰から、力を纏った刃が静かに迫る。
 が即座、これらを伊与田と穂泉が斬り倒し、
「うわっ、と!?」
「洒落臭いっ!!」
 同時に真上、降りかかった二人を、チカが薙刀の平で叩いて打ち落とした。気絶した者らが防楯の内で倒れたことを確認すると、全員の中心で目を凝らしていた六郷に尋ねる。
「どうです」
「爆弾、ガス、共に兆候ありません」
 言う間に、葉木沢と荷塚が進み出て防楯の位置を前進させた。
「伊与田君、本番だとホント強いねえ~」
「ぼ、防楯、二枚形成!」
 弾と力のぶつかり合いが、さらに激しさを増す。
 それをものともせず、辺谷と刀根山がどんどん押し込んでいった。
「防楯、さらに前進ッス!」
「切り込み位置、確保」
 バリケードまで一駆けの位置に防楯が立てられると、チカが号令を発する。
「ニ、ニ、三、かかれ!!」
 真っ先に伊与田、続いて穂泉が、
「うわあああ!!」
「往生せいやあっ!!」
 その後を追って葉木沢と荷塚が、
「いっきま~す」
「ま、待って」
 とどめと六郷、辺谷、刀根山が、
「駄目押しといきましょう!」
「了解ッス!」
「吶喊」
 次々とバリケードへと飛び込み、当たるを幸い、正面から左右、さらにその周囲へと制圧範囲を広げていった。最後に、後方に防楯を張っていたチカが静かにバリケードの内へと入り、制圧の橋頭堡を得る。接近する間に退避したのか、内側に倒れ伏す迎撃要員の数は多くない。
(やはり、向こうも無策ではない)
 改めて気を引き締めつつ、チカは周囲を見回した。
 玄関ロビー奥に設けられたそこからは、左右に殺風景な廊下が延びている。いずれにも、長い途上に同様のバリケードが設置されており、白刃と銃口がちらついていた。
 今度は自分たちがバリケードに身を隠しながら、局員は次の攻撃に備える。
 と、警戒役の六郷が叫んだ。
「左手、重火器!」
 シュッと短い噴進音がして、バリケードの外側に張った防楯の、さらに外側でロケット弾による爆炎が湧き上がる。屋内で撃つ物ではない、という常識も、この窮地では意味を失うらしい。
「能力者の奇襲に備えろ!」
 チカは督励しつつ、バリケードの中央で折れぬ柱として仁王立ちする。
(ここまで上出来……後は、ここで泥さんのために材料を揃える)

 それらの奮戦を、泥は前庭からじっと見つめている。
(重火器、また西側から――三十四手)
 正確には、戦場を観察し、戦況を組み立てている要素の把握に努めていた。
 初期の戦力配置、後背に督戦隊を配置されていると思しき能力者の挙動、攻撃を受けた際に退去する方向、逆に増援を送ってくる方向、浴びせかけられる銃火の密度、迎撃要員が武装する兵器の種類等、戦場にあるものだけではない。
(上階からの手榴弾――三十五手)
 改装される前の総合病院の設計図、改装された後の研究所の外観、壁面に露出している僅かな配管や凹凸、氷雨の排水を行う樋の経路、前庭の作りから石畳の傷み具合まで、およそ検証し得るもの、全てを思考の上で整合させてゆく。
(能力者の波状攻撃――三十六手)
 戦場で行われている行為を可能とするには、建物がどのような構造であるべきか、人間がどこにいるべきかを、すっきりと明白にする。これが判明した時、彼は掌に戦況の全てを握る。
 そして今、
(吹き抜けの左から援軍、支柱の撤去はできない、なら改装しても構造は同じ、銃弾の経路、バリケードの位置、守るのは階段、今さらガス使用――チカさん大丈夫でしょうか三十七手)
 全ての現象が噛み合い、パズルが完成した。
 即ち、道理と現象が綺麗に片された。
(指揮所は、そこですか)
 泥は制帽の下から、最上階の西端へと視線を向ける。
 他と全く同じ、窓をコンクリートで塞ぎ、鎧戸に偽装した壁面。
 しかし、全ての戦闘はそこを中心に発生し、そこを守るよう動かされている。
 背筋を伸ばしたまま、泥はそちらへと向き直る。動作の鋭さに、雨覆マントが一瞬広がって氷雨の粒を弾き飛ばす。規則正しい歩みが始まり、
(接近、三十八手)
 心中では《王》自身の動きを数え始める。
 これは任務が最終段階となった証だった。
 やがて歩みに力が乗り始め、変わらないリズムで踏まれる足下に、青い結晶の踏み台が形成されてゆく。程なく、迷いも乱れもなく目的の場所、最上階西端の壁の前へと至った。
(到達、三十九手)
 儀仗兵よろしくサーベルを眼前に直立させてから、三閃、四閃と振るい、再び同じ姿勢へと戻る。分厚いコンクリート壁が青い線を描いて斬れ、内側へと崩れ落ちた。
(突入、四十手)
 薄暗い部屋の光景……切り裂かれ火花を撒く電機パネルが、所狭しと並ぶ情報機器類が、硬直して彼を見つめる機関員たちが、見立ての正しさを示していた。
 それらを睥睨する《青の王》は、サーベルを前に突き出して、会心の投了を告げる。
「四十一手で、詰み――あなたたちに降伏を勧告します」
 が、
 最後の最後、盤面を目視で確認した泥は、即座に降伏を受け入れるはずだった・・・・・男、機関長の表情に、大きな違和感を覚えた。
「あ、《青の王》……!!」
 硬くも震えるその声は、想定よりも数段、絶望の色が濃い。
 それを目にした泥の心底から、不意にあの予感と気持ち悪さが蘇ってきた。
 なにかが、おかしい。大きく、ズレている。
 違和感の正体は、機関長から投げつけられる。
これ・・も……おまえたちの仕業か?」
 言われてようやく、泥は彼の指し示すものに目を留めた。
 たった今まで齧り付いていたのだろう、大型の通信機器。
 そのスピーカーからは、ノイズ混じりの戦場騒音が溢れている。
 泥は、戦闘中である屋舎内からの通信、と聞き流していたが、事実は違っていた。
《至急、来援を乞う! 至急、来援を乞う!》
 届いた一言だけで理解する。
 通信相手は、ここではない。
《正体不明の能力者集団の襲撃を受けている!》
 助けを求めているのは、全く別の場所。
 この研究所以外で、この危急の情勢下で、連携を取り合う相手は一つしかない。
 即ち、彼ら七釜戸による反乱計画を成立させていた頼みの綱、
《繰り返す、こちら厚木基地!!》
 来援する側だったはずの、能力者部隊を駐留させている厚木米軍基地だった。
《正体不明の能力者集団の襲撃を受けている! 至急、来援を乞う!!》
 絶望の叫びが、投了したはずの部屋の空気を、不穏の熱で掻き乱す。
《日本人能力者部隊が蹴散らされた! なんなんだあのガキどもは!?》
《来る、来てる! 扉が破られるぞ!!》
 通信の背後で、金属に打撃の加えられる音が不規則に轟き始めた。効率や規則性を無視した誰かが、無茶苦茶に叩いているような音である。
 最初に泥の脳裏を過ぎったのは無論《無色》だったが、なにかがおかしい。
(奴が長駆して隣県の厚木まで? それに、ガキども?)
 その疑念が、泥の胸中にかつてない……全力でぶつかり合った《赤の王》雲野征鷹や、異形の怪物《無色の王》相手にも感じなかった、不快なざわめきを生じさせる。
 まるで片したものをひっくり返された時に感じるような、ざわめきを。
 その間、通信先はパニックの度合いを青天井に高めてゆき、
《ら、落雷でダウンしたレーダーサイトが再起動! 方位角、勝手に動いています!!》
《そんな馬鹿な!!》
《あいつだ! あの《緑》色の――》
 ぷつり、と途切れた。
 指揮所に、唐突な静けさが訪れる。
 機関長や機関員は、呆然と立ち尽くしていた。
 彼らにとっては、全てが終わってしまった。ここで終わりだった。
 しかし、《青の王》初衣泥にとっては、違う。
 綺麗に片されつつあった今、ここから、なにかが始まりつつある。
 投了、どころではない。
 盤ごとひっくり返す対局者が、もう一人いたのである。
「――《緑》――」
 思わず零した泥に答えるかのように、スピーカーから声が零れた。
《どこ?》
 その声、というより手段を感じた泥は、押し寄せてくるものを総身に感じる。
 声を発したのは、機関長が通信していた大型通信機器だけではない。
 指揮所に備え付けられた通信機の全てから、発されていた。
(まさか、この通信は……いけない!!)
 築いた秩序が台無しになる。
 そんな確信を前に、泥は殆ど初めて方途に迷った。
 片す見立てが俄に測れない。
《ミヤちゃん、どこ?》
 届いてくる声は、幼い子供のものだった。
《しってる奴、私に答えて……私は》
 その声が、決定的な言葉を紡ぐ。
おう・・……《緑の、王》……》
 今日という日の騒乱は、まだ始まったばかりだった。

 その日、國常路大覚は朝からとある小委員会に同席していた。
 彼ら《王》や能力者にとって重要な出動のある日に、余事にかまけていたくはなかったが、現世に脚を置く以上、果たさねばならない義務は多々ある。与党総裁の出席に付き添い護衛する、という重要な公用なら尚更である。
 小委員会の開催理由は、与党議員の不祥事に関する懲罰動議で、こちらは処罰の結論も明白だったため、早々に議決が行われた。ただ、その議決の後、党内の細則について内々の素案が回覧された。一読した総裁は、無言でこれを傍らに立つ國常路に回した。
 護衛になにを、と怪訝に思いつつ書面に目を通した國常路は、密かに驚く。
『党員の警護体制についての素案』
 なんということもない議題の、しかし極めて重大な内容は、これまで外部の協力者扱いであった《非時院》を、正式に党組織の一部に組み込みたい、というものだった。
 与党による政権運営も漸くの安定期を迎え、総司令部とも全面講和・占領脱却の路線を諮りつつある昨今の時勢下、戦前の院外団の如き私設団体との不透明な関係も清算し、愈々の党勢拡大に努めるに如かず。当該団体においても、公務正式の立場となることで益々の栄達を――云々、文面にはわざとらしい美辞麗句が踊っていた。
 國常路が目を向けると、総裁は馬鹿馬鹿しそうな鼻息と共に微か、首を振った。自分は与り知らない、つまりは与党内の対抗派閥による不意討ちの動議、ということである。政情の与党優位がほぼ確定したことで、対抗派閥にも余計な政治工作を行うほどの余裕ができたらしい。
 護衛の立場から政界をいいように振り回してきた《非時院》を、正式に与党内へと組み込むことで主導権を奪うのが、素案の目的に違いなかった。総裁の率いる主流派閥にも超常的な力を持つ《非時院》を「もっと便利に使いたい」と考える者は多い。対抗派閥としては素案を論じる間に、これら要望を纏め上げて党全体の意見にする、党全体の意志となれば無視もできまい、あわよくば総裁の足下を崩し党を掌握する契機とする……等々の思惑があるのだろう。
 よりにもよってこの日に素案を提出したのも、偶然とは思えない。重大な能力者事案より総裁の護衛を優先して現れるだろう《非時院》の頭目に、自分たちが俎上に載せられる光景を見せつけ、承服への圧力とする、といったところか。
(なるほど、人間というのは全く、飽くなき生き物だ)
 國常路は他人事のように微笑んでいた。
(国をも砕いた破壊と死から、たった三年しか経っていないというのに)
 これまで《非時院》は、彼らの貪欲さに呑み込まれるのを避け、政治抗争の外側にいるよう努めてきた。が、時勢の推移は、徐々にそれを許さなくなってきているのかもしれない。
 今後も自分たちの関与のあるなしに拠らず、世情の安定に連れて力を欲する者らの干渉は増えてゆくだろう。自分たちこそが抗争の理由になりつつある状況が、それを示している。
 力は、そこにあるだけで人を動かし、流れを作ってしまう。
 まるで、自分が日々の鍛錬で広げる、星々の群れのように。
(まさか、ここまで早く端緒を現すとはな)
 この素案は、ほんの一部に過ぎない。戦後の混迷に紛れさせてきた力は、その収束と共に多くの目に留まるようになるだろう。変わり革めることを、そろそろ考えねばならない。
 慎重に答えを探ってきた命題を突き付けられる実感が、湧き上がってきた。
 命題とは即ち、
(我ら《王》を、どのように処すべきか)
 今まで同様、裏に隠れ潜むか。
 それとも翻って、表に出るか。
(でなければ、また異なる道があるのか)
 命題ながら、容易に方向性は定まりそうになかった。
 なにせ、身を処すべき《王》全員の姿を認めてすらいないのだから。
 それらの思案に暮れる中、
 不意に、
《どこ?》
 議場備え付けのラジオから、声が来た。
 そろそろどころではない、考える暇すら与えない、と嗤うように。
 慎重さなど蹴り飛ばした命題が、苛烈な現実を突き付けるように。
(!!)
 素案を見た時とは比べものにならない、ほとんど物理的な衝撃が國常路を貫いた。
 初めて聞く、恐らくは子供の声が、他の誰にも使わせない《彼ら》だけの力をぶち撒ける。
《ミヤちゃん、どこ?》
(おまえは、まさか)
 騒ぎ出す議場で、國常路だけが事態を直感している。
 職員が慌ててラジオのスイッチを弄っても、声は止まらず溢れ続ける。気付けば議場内外のスピーカー全てが、他の誰にも止められない声を、同じく大きく放っていた。
《しってる奴、私に答えて……私は》
(揃った、のか……この今、遂に!!)
 得も言われぬ高揚感が、國常路の心を熱する。
 隠れ潜むどころでは、もうなくなった。
 なにもかも、有りの侭に現れるだろう。
 それ・・が彼に、彼らに、この国に、なにを齎すのか。
 彼らと共にそれ・・を受け止め、確かめねばならない。
 逡巡は、とっくの昔に捨て去っている。
 来るからには、覚悟と共に受け止める。
 屹然と、國常路は決定的な一言に向かい立つ。
おう・・……《緑の、王》……》
(最後の一人……《緑の王》!)
 彼らの許に行かねばならなかった。
 願わしい奇跡かどうか見極めるために。
 あるいは、願わしい奇跡とする・・・ために。
「國常路君」
 既知の称号を耳にした総裁が、ようやく同じもの・・・・に振り返った。
 視線を受けた國常路は、微笑みのままに告げる。
「素案は検討の上、回答します」
 総裁は、答えた男がどこか、大きくなったように見えた。
 見下され、抑え付けられる大きさではない。
 自然と見上げ、背筋を逸らす大きさだった。
 大きな男は、大きく空気を吸い込むや、議場を大喝した。
「我らを欲する議院方、見知りおき頂きたい!! 我ら何れもが刃にして炎である、と!! これより存分、ご覧に入れるがゆえ、ゆるりと呑み込む覚悟を召されよ!!」
 頬から腹から、震撼させた余韻の去らぬうちに、その大きな姿は議場から消えていた。
 今度は、残された総裁が他人事のように微笑んだ。


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