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K SIDE:PURPLE 07

著:鈴木鈴

 秋が過ぎて、冬が来た。
 その頃になると、紫の天分とは『目』の確かさだということに長谷は気づきはじめていた。百の言葉を費やすよりも、一の行動を見せたほうがはるかに飲み込みが早い。型どおりの稽古ではなく、実戦方式の立ち会い稽古に切り替えると、紫の剣は日を追うごとに冴えていくようになった。
『当てず』の手加減ができていたのは、最初の2週間だけのことだ。全霊をぶつけるようにして長谷に挑みかかり、稽古が終わる頃には立つこともままならないほど消耗する。そんな毎日を繰り返すうちに、紫は長谷のクセや隙、紫が言うところの『美しくない』筋を見抜くようになっていった。鋭く、的確に、執念深く――獣のように挑みかかってくる紫に対するには、直に当てる以外に方法がなくなっていったのだ。
 その日は、突きで終わった。
『速三段』を繰り出し、さらに懐に潜り込もうとしてきたところで、カウンターの突きが紫の胸元を捉えた。
 後方に吹き飛び、それでもなお留まろうとしたところで、ついに限界が来た。一歩だけ足を前に出して、その場に膝を突いてしまう。歯を食いしばり、痛みに耐えながら、それでも剣を離さない根性は見上げたものだったが――この辺りが、限界だろう。
「よし! 今日はここまで!」
 そう宣言して、長谷は太く息を吐き出した。冬の寒気に、全身から湯気が立ち上っている。それほどまでに、紫の相手に消耗していたのか――と、長谷は軽く苦笑した。
「……ありがとう、ございました」
 紫の有様はなかなかにひどいものだった。全身が汗にまみれ、あざがいくつも浮かんでいる。『当てず』ができなくなったのだから、ある程度の外傷は仕方はないのだが――問題は、この寒さの中、濡れたままでいることだろう。長谷は自分の荷物から胴着を1枚取り出し、紫に頭からかけてやった。
「……先生? これは?」
「うむ。このところ冷え込んできたからな。風邪でも引かれては敵わん、それを着ておけ」
 そう言って、長谷はひとり満足げに頷く。長谷自身は風邪というものにかかったことはないのだが、このところ『二番街』の知り合いが何人も体調を崩しているので、弟子の身体を気遣わなければと思って用意してきたのだ。
 鈍い鈍いと言われて生きてきたが、なかなか良い気遣いができたものだ――と自己満足に浸っていると、紫が妙な顔で胴着を見下ろしていることに気づいた。
「どうした? 遠慮せずに着ていいぞ?」
「あの、失礼ですが、これはいつ頃洗ったものですか?」
「まだ2、3日しか着てはおらんが」
「お気持ちだけありがたく頂戴しておきます」
 早口にそう言って、紫は胴着を投げ返してきた。
 空中で慌ててそれを受け止めてから、長谷は傷ついたように紫のことを見る。
「……紫。人の好意をむげにするのはどうかと思うが」
「着たものを何日も洗わないことのほうがよっぽどどうかと思います」
 冷ややかな紫の眼差しに、むう、とうなって頭をかく。そういうものだろうか。長いことひとり暮らしを続け、ときに路上生活を営んでいたこともある長谷の衛生観念は、紫とはかなりの隔たりがあるようだ。
 そんな長谷に、紫は深々とため息をついた。
「洗濯物が溜まっているのなら、私が洗いましょうか?」
「なに? いや、そこまでしてもらうわけには――」
「先生が不潔だと、私が困るんです。こういうものを押しつけられたりもしますから」
「……むう」
「シャワーを浴びたら、先生のお宅にお邪魔します。それまでに、洗い物をまとめておいてください。さっさと片付けてしまいますから」
「そ、そうか。それなら、まあ……任せた」
 弟子にてきぱきと指示を下されて、長谷はあいまいに頷いた。立つ瀬がなかった。
 そのとき、空き地の外から、声が響いてきた。
「紫ちゃん!」
 紫の肩が、ぴくりと揺れる。2人揃って視線を向けると、空き地を区切るフェンスの向こうに、サユリが立っていた。腰元に手を当てて、眉根に皺を寄せている。朴念仁の長谷でさえも、彼女から立ち上る怒気が目に見えるようだった。
 サユリはつかつかと空き地に入ってきた。汗とあざの浮かぶ紫の姿を見て、さらに怒気が強くなる。紫の手首を掴み、きっと長谷のことをにらみつけて、彼女はとがった声で言った。
「……長谷さん。こういうことはやめてと、言ったはずだけど」
「ん。いや、まあ、それはそうだが。その、な――」
『こういうこと』とは、紫に稽古をつけることだ。まあ確かに、年端も行かぬ少年が、毎夕全身あざだらけにして帰ってくるのだから、親としては気が気ではあるまい。
「そもそも、長谷さんの仕事は『二番街』のトラブル解決よね? それが、どうして紫ちゃんにケガをさせているの?」
「し、しかしな、サユリさん。剣の稽古には、ある程度のケガはつきもので――」
「だから! その稽古をやめてと言っているの!」
 激昂したようにサユリは叫び、長谷は思わず一歩後ろに退いてしまう。ナイフを持った相手を前にしても怯むことはなかったが、サユリの怒りはそれを上回る迫力を有していた。長谷は助けを求めるように、周囲に視線をさ迷わせ――
 ふと、紫がサユリの手を握り返し、優しく言った。
「お姉様。家に帰りましょう」
 サユリは険しい目つきを紫に向けた。紫は静かに微笑みながら続ける。
「汗で濡れていますから、温かいシャワーを浴びたいです。このままでは風邪を引いてしまいます」
「紫ちゃん、あなたね――」
「先生。洗濯物、まとめて置いてください。あとで寄ります」
 紫の柔らかな声音に、サユリはまだなにかを言おうと口を開き、それから諦めたように首を振った。長谷のことをもう一度にらみつけ、「この話は、あとできっちりつけるから」と念を押して、紫と寄りそうように空き地を去って行った。

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