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HOMRA in Las Vegas 12

第12話「狂気、妄執、その行く末」

著:鈴木鈴

 一歩ずつ芝を踏みしめて、エドは進んでいく。
 スオウはなんの感情も映らない目で、エドのことを見据えていた。足蹴にしている鋼鉄の巨人を一瞥すると、そこから飛び降りてエドに向き直る。首の後ろに手を当てて、こき、と関節を鳴らし、訊ねる。
『誰だ?』
 ぎらつく憎悪を滲ませて、エドは答える。
「《煉獄舎》クランズマン、エドゥアルド・エル・ロホ。テメェを、消しにきた」
 スオウは首をかしげる。英語を解さないのかもしれない。どちらでもよい。エドはおしゃべりをしにきたわけではないのだ。
 右腕が、ごうごうと音を立てながら燃えさかっている。
 エドゥアルドの『聖痕』は、右手のはずだった。迦具都のインスタレーションによって吹き飛んだ4本の指、そこから噴き出す炎こそが、彼の証であり武器であった。
 その炎は今、エドの右腕全体を包んでいた。気が狂いそうになるほどの熱痛ねっつうも、今は麻痺して感じない。痛みもなく、感覚もなく、それでも炎の腕はエドの意思通りに動いた。今までの炎とは比べものにならないほど、それは熱く、強く、そして凶悪だった。
 エドはそれを、福音だと解釈する。《赤の王》の僭称者を誅するために、地獄にいる迦具都が授けてくれたのだと。
 炎の拳を顔の前で握りしめて、エドはぼそりとつぶやく。
「死ね」
 そして、エドは右腕を横薙ぎに振るった。
 彼我の距離は10メートルほど。振るわれた炎は蛇の首のように伸び、スオウの側頭部に襲いかかった。
 スオウはわずかに目を見開き、右腕を立てる。
 鈍い音を立てて、炎の一撃が防がれた。
 エドはにやりと笑った。
 スオウの腕を支点として、炎の腕がさらに伸びた。獲物を絡め取る投げ分銅ボーラと同じ動き。縄と化した炎は、スオウの身体に巻き付き、その動きを封じる――はずであった。
 今度はスオウが笑った。
 熱風が吹き荒れた。破壊的な威力を含むオーラの颶風が、炎の縄を引きちぎり、10メートル離れたエドにまで届いた。エドは反射的に、生身のほうの腕でそれを防いだ。
 腕を下げたとき、眼前にスオウの顔があった。
 みぞおちの辺りでなにかが爆発した。空と大地がぐるぐると視界内で回転し、激痛と猛烈な吐き気と加速度が一斉に襲ってきた。つい先ほど車で轢かれたときの衝撃を、10倍にでもしたかのようだった。
 やがてエドは背中からフェアウェイに着地し、バウンドし、うつぶせに倒れた。こみあげるものを抑えることができず、エドはその場に胃液をまき散らした。
「がっ、あ、――――――――ッ」
 生身の腕で身体を支え、エドは上体を起こした。
 スオウは――追ってこない。ただ、不思議そうにエドを見ているだけだ。
 やろうと思えば、エドの腹を貫くことだってできたはずだ。
 手加減。その言葉が、エドの憎悪をさらに滾らせた。
「ふざ、けんじゃ、ねえぞッ!!」
 濁った怒声と共に、エドは炎の腕を振り上げた。
 ぐんと伸びた炎の腕は、そのまま放物線を描いてスオウに降り注いだ。スオウはわずかに身を引いてそれを避けるが、拳は地面に激突すると同時に爆裂し、周囲に火炎をまき散らした。
 だが、破裂した炎は、スオウの圧倒的なオーラによってかき消された。その肌どころか、産毛を焼くことすら叶わない。
 スオウは足を振り上げ、炎の拳を踏みつぶした。
 自己のオーラが他者のオーラに浸食される感覚――擬似的な激痛に、エドは歯を食いしばる。そうしながらエドは炎の拳を無理矢理に再生させた。5つの燃えさかる爪が、スオウの足首に食い込もうとした。
 スオウは足を踏み込んだ。
 攻撃、ですらなかったのだろう。地面に投げ捨てたタバコを踏みにじって、火をもみ消すのと同じようなものだった。ただそれだけの動作で炎の拳ははじけ飛び、重々しい音と共に芝生にクレーターが発生した。
 脂汗を滲ませながら、エドは目を上げて、スオウをにらみつける。
 象と蟻。鷹と羽虫。《王》とクランズマン。
 彼我の戦力差は、考える余地がないほどに圧倒的なものだった。迦具都玄示と羽張迅。2人の《王》を目の当たりにしたことのあるエドは、そのことをよく知っていた。
 迦具都が相手であれば、今ごろ自分は塵も残っていないだろう。
 羽張が相手であれば、今ごろ自分の首は胴体とすっぱり離れていただろう。
 まだ自分が生きているという事実が、なによりも腹立たしかった。
「がああああああああッ!!」
 咆吼と共に、エドは地を蹴った。炎の拳を固め、まっすぐに殴りかかる。
 片手で防がれた。
 間近に覗くスオウの瞳は、およそ戦闘の緊張とはほど遠かった。不快と怪訝。蠅にたかられる獅子が、それを疎ましく思っているような目つきだ。
 スオウの拳が、エドの脇腹を殴りつけた。
「ぐっ……」
 うめきと共に下向いた顔を、つま先が蹴り上げた。首から上の感覚が消失し、エドは自分がどうなっているのかよくわからなくなった。
 気がつけば、夜の空が視界いっぱいに映っていた。
 遠く見上げた『ダモクレスの剣』は、もはやその欠片さえも浮かんでいない。
 ゆっくりと歩み寄って、スオウがエドの顔をのぞき込む。不快は消え、ただ疑問だけがその表情に浮かんでいる。
 血にまみれた唇を動かして、エドはスオウを罵ろうとした。
「…………、……」
 できなかった。死にかけの金魚のようにぱくぱくと動くばかりで、口から声が出てこない。
 それでも、スオウに意思は伝わったようだ。彼は首をかしげ、ぽつりと、
『死にてえのか?』
 エドの血濡れた唇が、かすかな笑みを浮かべた。
 そのとおりだ。
 エドは、死にたいのだ。
 生き残ったのではない。死に損なったのだ。その想いが消えたことは、この10年間で一度もない。
 アメリカに渡り、無数のマフィアと争い、ラスベガスの裏の王として君臨した。すべてが、エドにとってはまったく意味のないものとしか感じられなかった。《煉獄舎》のクランズマンとして暴れ回ったときのような昂揚はない。《セプター4》の強者たちを前にしたときのような戦慄もない。ただ生きている・・・・・・・。それだけの、燃えかすのような人生だ。
 だから、今、ここを終わりにする。彼ら・・のようにすべての生命を輝かせ、偽りの《赤の王》を相手に、華々しく散るのだ。
 エドはなくした右腕に全神経を集中させる。黒焦げになった肩口からわずかな炎が漏れ出た。ライターの火にも劣るほどの、弱々しい炎だ。それでも、それがエドに今できる全力だった。
 スオウは目を細めた。
 その拳に、オーラが集っていく。赤く輝く力の象徴。
 スオウはようやく理解したのだろう。エドは決して止まらない。その生がある限り、常にスオウを付け狙い、破壊と混沌をまき散らす、ということを。
 赤く輝く拳を、己の終わりを告げるそれを、エドはじっと見上げ――
 銃声が響いた。
 スオウが、わずかに目を見開いた。
 無論、弾丸がスオウを傷つけることはなかった。蓋然性偏向フィールドによって、通常の兵器は異能者に通用しない。まして相手が《王》であるのなら、ただの銃弾などなんの意味も持たない。
 スオウは悠揚と顔の向きを変えた。エドも、思わず目だけでそちらを見た。
 長い黒髪と、褐色の肌を持つ女が、震えながら拳銃を構えていた。
 マリアだ。
 がくがくと震え、青い目には涙が浮かんでいる。恐ろしいのだろう。マフィアの情婦とはいえ、彼女が修羅場を味わったことなど一度もない。護身用として拳銃を与えただけで、それを触れることすら恐れるような女だった。臆病で、従順な、ただの女。間違っても、この場にいていい人間ではない。
 それが、揺れる銃口を《王》に向けている。
 恐怖に裏返った声が、マリアの口から迸った。
「――そ、そ、その、人から、――は、離れなさいっ!!」
 その覚悟とは裏腹に、マリアの姿は滑稽だった。彼女の存在はこの場になんの意味ももたらさない。無意味な覚悟、無意味な武器、無意味な脅迫。そのことが、マリアにわかっているのかどうか。
 潰れていなければ、エドは鼻を鳴らしていただろう。スオウに視線を戻し、ようやく出せるようになった声を出す。
「続けろ、よ」
 スオウもまた、再びエドのことを見ろ押した。彼女の存在に意味がないことは、スオウも承知しているだろう。拳を振り上げ、振り下ろす。それだけで、スオウを悩ませる厄介はすべて片がつく。
 立て続けに銃声が響いた。
 銃弾はすべてあさっての方向に飛んでいった。
 死の間際でありながら、エドは呆れた。蓋然性偏向フィールドがなかったとしても、スオウには一発も当たらなかっただろう。訓練をしたこともない、恐怖に震える女の手による銃撃なら、仕方のないことかもしれない。
 だが――
 スオウの拳から、オーラが消え失せた。
「……!?」
 それきり、スオウはエドにもマリアにも興味を失ったようだった。くるりと踵を返し、ゴルフコースを横断して、遠くの木々に向かってゆっくり歩き去って行く。
 エドは顔を歪め、渾身の力を込めて身体を起こした。
 そのまま立ち上がろうとして、足から力が抜けた。両膝と片手を地面につき、かろうじて身体を支える。マリアがすかさず駆け寄ってきたが、エドは見向きもせず、スオウの背中に向かって叫んだ。
「待ちやがれッ!! てめえ、どこに行く気だ! 俺を、殺すんじゃねえのか!?」
 スオウは、歩みを止めもしなかった。
 ただポケットから手を抜いて、ひらひらと手を振っただけだ。
 どす黒い殺意がエドの中で膨れ上がった。殺す。なにをしてでも。そう思い、駆け出そうとするが、足にどうしても力が入らない。葬列に追いつこうとするあの夢のように。目の前に、どうしても追いつきたい背中があるのに、身体が言うことを聞かない。
「――くそっ、くそっ、くそおおおおおおおおおおおおッ!!」
 額を地面に叩きつけて、血を吐くようにエドは叫んだ。夜風が馬鹿にするように吹き抜けて、散った芝が耳元をかすめていく。 
 その音に混じって、女の涙声が聞こえた。
「……エド、もうやめて、エド!」
 膨れあがった殺意が、行き場を見つけた。
 エドの凝視に、マリアは紛れもない恐怖の表情を浮かべた。怪物を前にしたかのように、尻餅をつき、後ずさる。
 腕を伸ばせば届く距離だった。女の細首ひとつ、異能を使うまでもなく握りつぶせる。
 そうするだけの理由もあった。こいつは、俺の邪魔をした。スオウとの戦いに水を差し、せっかくの機会をふいにした。それだけで万死に値した。殺すべきだったし、殺したかった。
 鉤の形に曲げられた五指が、マリアの首まで伸びようとして、途中で止まった。
 殺すのか、という声が聞こえた。
《赤の王》に敵わなかったから、腹いせに自分の女を殺すのか?
 それが、死に損なった俺が、今まで生きてきた意味か?
 震える指は、やがて力を失い、だらりと下がった。
「……ぐ、う、うううううううううっ…………!」
 その手で顔を覆い、エドは身体を丸め、血を流すように嗚咽を漏らした。

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