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グラウンド・ゼロ fragments 08

禁断症状


著:壁井ユカコ

 あの日、あのとき――の前の晩。伏見仁希は歓楽街で泥酔していた。
 神奈川県と接する東京都の南の端に位置する、下羽田かばたという街。ひと駅下れば多摩川を渡って神奈川県に入る。
「一服失礼するわね」
 女が気怠い物腰でソファから身を起こした。落ちかけた口紅を引いた唇に細身の煙草をくわえ、テーブルに備えつけの店のマッチで火をつける。
 さっきまで女がしなだれていた男はトイレに立っていた。男は仁希の連れだったが、知っていることといえば「更科」と名乗った名前だけだ。一軒目のバーで声をかけられてそれなりに話がはずみ、いい店を知ってるからもう一軒行こうと誘われた。一軒目ですでに泥酔していた仁希は更科に連れられるままこの店に入った。
 誘われればたいてい断らずについていく。行き先がどんな場なのか、相手が信用できる人物なのか詮索しようとは思わない。数年前に木佐と出会ったのも、誰だったかに同行を請われてほいほいついていったなんだったかのパーティーでのことだ。
 人間は赤ん坊として生まれ落ちてから自我が形成される過程で、自分自身、親や家族、幼稚園や学校へと世界を広げ、社会に適応していくもののようだ。そういう成長過程での「興味の対象の拡大」が仁希には起こらなかった。自分自身を含めてなにに対しても興味や感情を喚起されず、それゆえやる気も喚起されない。
 五感で知覚したものは明晰に認識できた。だが、そのすべてが仁希にとっては無味乾燥でどうでもいいものだった。
 ――ただ一つ、興味が芽生えたものを除いては。
「ねえお客さん、五歳の子がいるって本当? さっきお連れのお客さんが話してたけど」
「んー。いるよぉー」
 舌っ足らずに答えて仁希は寝そべっていたソファから床にずり落ちた。斜向かいのソファには更科が脱いだハイブランドのスーツのジャケットと洒落たネクタイが引っかけられている。
 床に座り込んでローテーブルの上のグラスに手を伸ばす。手もとがおぼつかずグラスを指ではじいた。周囲のグラスも巻き込んでがちゃがちゃと倒れ、大理石調のテーブルを氷で薄まったアルコールが濡らした。
「大丈夫ですか? お飲み物新しくします」
 すかさずボーイが駆け寄ってきてテーブルの傍らに片膝をついた。グラスをトレーに片づけ、
「次、なににします?」
「兄ちゃんに適当に任せるよ」
「じゃあ面白いもの作りますよ」
 ドレスシャツに黒ネクタイと黒ベストをきっちりと身につけたボーイの制服姿だが、髪は根元から鮮やかなピンクに染めている若い男だ。屈託のない口調で言って左右の手に持ったのは焼酎の瓶とビール瓶だった。
「子どもっていくつのときの子? まだ若いわよね、お客さん」
「十九だったかなあ」
「っていうことはまだ二十代半ばなのね」
「若いですねえ」
 ボーイが慣れた手際で一つのグラスに二種類のアルコールを注ぎながら合いの手を入れる。
「兄ちゃんも若いだろ。ハタチくらいか」
「童顔なんですよねーぼく。この業界にもけっこう長くいますよ」
「マナトはこう見えて三十越えてるのよ」
 そう言った女のほうは三十代後半か、若くはない。長い巻き髪を頭の高い位置で豪奢に盛っている。
 コの字型のソファで各テーブルが仕切られた場末のキャバクラの店内は猥雑な談笑で溢れていた。黄味を帯びた照明に紫煙の潮流が浮かびあがっている。
「どうせ行きずりの女にでも産ませて捨てたんでしょう。お客さん、やりそうな顔してるもの」
「ルリコさんはその境遇で捨てられたほうだもんねぇ。はい、海外から観光で来たお客さんに教えてもらった飲み方なんです」
 濡れたテーブルの上を綺麗に滑ってきたグラスが仁希の手に収まった。
「捨ててねえし、ちゃんと結婚してるし、奥さん愛してるよー。おれの奥さん、女社長。それにおれの子、世界一かわいいんだぜえ」
 グラスを半分ほど一気に呷る。焼酎とビールのちゃんぽんが脳を掻き混ぜてくらくらし、側頭部からテーブルに突っ伏した。
「あー……はやく会いてぇなあ……おれのかわいいおサルさんに……」
 テーブルのアルコール溜まりに頬を浸し、ろれつのまわらない舌で呟く。
「そんなに大事な家庭があるなら、こんな店で飲んだくれてないで帰りなさいな。あたしも帰って娘に会いたくなってきちゃった」
「ルリコさんってば子どもの話になるとマジの説教するんだからー」
 女の口調が真面目な説教を帯び、ボーイのほうは軽薄に冷やかす。
「まだ駄目なんだよ……」
「駄目って、帰れない理由があるの?」
「毎日なんか顔見たら飽きるかもしれねーじゃん。世界一おもしれーもんも、毎日かまってたら飽きるかもしれねーじゃん」
「……なに言ってるのかちょっとわからないわ」
 テーブルに頬をつけたままグラスを傾けようとしたが指が震えた。口に入らなかった液体が顎を濡らしてテーブルの端から滴り落ちた。
「お客さん、クスリでもやってんですか? イカれてますよね」
「クスリぃ? そんなもんより百万倍気持ちよくなるもんさ」
 猿比古の顔を見てから一ヶ月が過ぎたところだ。身体の中がからからに干上がっている。どんなに酒を食らっても渇きは癒えない。意識は朦朧とし、喉はひりつき、身体が本気で危険信号を発している。
「禁断症状の限界まで〝おサル絶ち〟してから会いにいくから絶頂に達するんだよ……まじ、イキそーになる……」

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7,852字

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