教職バカ一代 12

教育課程の編成

 35年間に学習指導要領の大きな改訂を何度なく経験した。10年おき、中学校の完全実施年は1991年2001年2011年2021年である。完全実施のために移行措置期間、その前に編成があるから5年くらいかけて編成する。

 1991年の改訂   目玉は選択教科だ。必須教科の時間数を最低限にすると、選択教科の時間を多くつくれた。秋葉中時代は塙先生を先頭にチームをつくり、原案の作成に参加した。保護者、生徒アンケートの作成から集約と分析、学校教育目標と重点、準備会議を何度となくもち、職員会議で提案をしながら進める。準備は放課後になることかが多かったから、夜に及んだ。終わった後は飲みに行く。


 塙先生は勤務時間をきちんと守る人だった。会議も始まりの時間だけでなく、終わりの時間も明示する。いまでこそ働き方改革のおかけで5時退勤は当たり前になったが、30年前は早く帰る者は白い眼で見られた。そんな中でも勤務時間内にすべてが終わるよう、いつも綿密に予定を立てるのだ。勤務時間内に仕事ができなければ意味はない。できないのは、計画性がなく、能率の悪い仕事をしているか、能力が低いからで、厳しい言い方かもしれないが、社会常識として当時から存在していた。過労死などが問題になったが、決しておろそかにされてはいなかった。私学の教師はきっちり5時に退勤していた。

教育課程編成のために遅くまで残るのは矛盾しているようだが、実は裏ワザがある。それは別だった労働組合の活動を抱き合わせたのだ。日教組は当時の文部省と和解するまでは活発に活動していたので、市教委と対抗して独自の教育課程を積極的に編成するのは当たり前だった。塙先生は公式の教育課程編成会議と組合の編成活動を合同という形にして進めた。今でこそ組織率が低いが当時は100パーセント組合に入っていたからできたことだ。
 開校間もない秋葉中はしっかりした理念のもとに教育目標と教育課程があったし、その編成記録もしっかり冊子にして残されていた。この流れを受け継ぎ、人がいれかわっても、決めた理念を引き継げるよう準備した。また、分科会を多くもち、チームだけでことをすすめないようにみんなの意見を取り入れた。自分も秋葉中5年間の歩みを編成したが、それはバイブルのように学校の成り立ちや特色がわかるものだった。
 編成のためには勉強する。当たり前のことだ。新聞の報道がいちばん先だから、中教審の答申にはいつも注目していた。いまはネットで配信してくれるからいつでもチェックできるので、これから編成するときは常に動画やコミットメントをチェックしましょう。
 このときの編成で教職員がいちばん悩んだのは、クラブの時間と同様、選択教科で集まってきた生徒の指導が困難になる危惧があったことだ。90分のクラブのように指導の困難な生徒が集まり、収集がつかなくなるのではないか。しかし、生徒にとっては得意な教科は深化でき、不得意な教科は補充できる時間として有用なことは事実。教員も自分の得意分野でカリキュラムをつくれるから自信をもって取り組める。現在の総合的な学習は選択教科の時間にもできる。自分は選択教科をもっと活用すべきだと考えている。しかし、後ろ向きな教員のなんと多いことか、必須教科の時間数には~線がついて幅があり、最低限にして選択を増やすという提案も難色を示す教員が多く、難しかった。当時、最低限の時間数をとる学校はほとんどなく、内容がないのに結局マックスの時間をとっていた。横浜市の教員のレベルの低さがわかる。本来の目的を生かす意欲がない。なんとか選択教科を活かす方法はないかと考えた。そこで思いついたのは、評価の還元である。選択教科にも当然評価が伴う。深化でも補充でもどちらでも評価する。その評価はABCの3段階だったりするが、それを生徒の履修している必須教科の単位にしてしまうというアイディアだ。保護者にも生徒にもあらかじめそのことを知らせておけば、遊びの時間にはならないのではないかと提案した。
 自分はよく反抗的と思われがちだが、実は文科省や市教委の提示するものを順守してきたつもりだ。改訂された指導要領や市教委の研究提案アイディア取組を前向きに受け止めてきた。日の丸君が代でさえ、法制化されてからは掲揚するし、大きな声で歌う。浜教組は日教組が文科省と和解したときにやめた。やめた当時、上の宮には共産党系のばりばりの組合員がいて、なぜか見込まれてオルグを受けていたが、きっぱりお断りした。そんな自分を抑えようとする管理職や主幹がなんと多いことか、本来、自分たちが取り組むべきことを平の自分が率先してなんで煙たがられるのか、その点においても35年間、不信感が募る一方だった。

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