見出し画像

授業・日本史  -授業展開で使う日本史-

聖徳太子没後1400年

中学校の歴史は、江戸時代末まで人物を中心に展開していく。その中でもっともページ数が割かれている一人が聖徳太子だ。たぶん、どこの教科書も2~3ページ。十七条の憲法、遣隋使の派遣、法隆寺建立など知らない国民はいないほどだ。にも拘わらず、その一つ一つの偉業について、正しく理解できていない。太子以前と以後がどのように大きく変わったのか、説明できますか、という話である。
 
538年に朝鮮半島は百済の王から仏像とお経が初めてもたらされた。それを保護し仏教を広めようとしたのは豪族の蘇我稲目であった。これに反対する物部氏とはげしく対立し、のちに蘇我馬子によって物部氏は滅ぼされてしまうが、太子はその蘇我に与したのである。ではどうして太子は仏教を保護したのか。教科書では何も説明されていない。

 説明には、宗教の持つ意味を考える必要が出てくる。そもそも宗教とはなんなのか。日本の自然神から発生した神々とは違い、仏教は釈迦が悟りを開いて得た明らかな教義が存在した。人が生きることの意味や自然現象、宇宙についても説明されていたから、科学の未発達な世の中にあって、あらゆる回答をもつ教えは当然人々の心を惹きつけたに違いない。だが、そんなに難しい話をしても歴史の授業にはならない。
中学生にとっていちばん分かりやすいのは、「人は一人では生きていけない、自分や家族の生命や財産は自分で守るしかない」、これに尽きる。弱肉強食、人権など尊重されず、国家という枠組みに守られることもなく、発達した科学もない。法などない、あらゆる理不尽に立ち向かわねばならない。誰も守ってはくれない。そんな弱い人間が生きるためにはどうしても集団、それも大きく強い集団に属する必要がある。弱い人々はよりどころとなる大樹を求めた。そしてもっとも頼りになったのは、仏教であった。神にさからえば罰があたる。極楽往生できない。そんな鉄壁に守られた寺院に身を置けば、きびしい労働と引き換えても、じゅうぶんな恩恵をうけることができた。
一方、為政者はどうか、ライバルに差をつけたい豪族にとって、仏教ほど有効な手立てはなかった。仏教の力をもってすれば人を集めることはたやすい。多くの人を集めたものが財をなし、財を持つものが力を手にすることができた。仏教は大陸とのパイプも担う。最先端の学問や知識、技術は僧によってもたらされたし、技術や鉄、銅などの金属、織物や陶磁器といった日本では貴重なものは一切が大陸からもたらされた。蘇我氏が百済王の進物を尊重した目的は百済との関係を太くし、そのむこうの中国との関係も結ぶことにある。太子が大和朝廷の力を拡大するために、蘇我氏と組むのは当然である。
ちなみに、貿易取引する以上、日本から輸出すべきものも多かった。一例をあげると、馬である。古墳の埴輪にも馬型が多くみられるように、日本は野生馬の産地といえる。ところが、中国には野生馬が少なかったといわれる。輸入して繁殖して増やした。それと同時に労働力として、人間もまた重要な輸出品だった。奴隷である。今は想像できないが、それを超えたところに歴史がある。もう一つ例をあげると、中国人は火薬を発明したが、肝心の材料である硫黄は日本が最大の産地だった。全国に温泉がある火山列島だから日本では当たり前の資源だが、古大陸の中国には火山がないのだから。日本は馬と硫黄を、大陸からは文化と技術を、フィフティフィフティだ。

話をもどそう。太子は天皇の子である。天皇は神祇をつかさどり、すべての神を祀る立場にあるのだから、太子が仏教を保護するのは実はおかしい。日本には仏教の伝わる以前より崇める八百万の神々が存し、どの土地にも大小にかかわらず神社が建てられ、それぞれの神を祀っていた。だから、仏教の神々をまつることは自分たちの神々を冒涜するに等しい。その矛盾をどう説明するのか。やはり教科書は何も語らない。
太子が莫大な費用を投じて、法隆寺をはじめとする寺院を建築し、仏教を広める役割を果たしたことで、日本に仏教が根付いたことは確かだ。祭祀をつかさどる天皇が八百万の神々を祀り、摂政たる太子が仏教を普及する。太子が即位せず、推古天皇の摂政のまま終わることも説明できる。神仏習合が推進され、インドの神々を日本の神と融合すれば外国にも理解されやすい。これはまさに最強タッグといえる。
太子がなくなったあと、その子山背大兄皇子は蘇我入鹿によって殺されてしまう。イニシアチブは天皇ではなく豪族にあったことを示す。その豪族同士の権力争いも645年、中大兄皇子と中臣鎌足らのクーデターによって幕を下ろす。

次回  大谷翔平は蝦夷である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?