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2024/6/16 三島喜美代展、吉増剛造展をみて気づいたこと

練馬区立美術館『三島喜美代 ―未来への記憶』と足利市artspace & café 『吉増剛造展─火の言葉だけが残った─』を鑑賞して、ハッと気づいたことがあったのでここに記載したいと思う。

『三島喜美代 ―未来への記憶』
https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202401281706414617

『吉増剛造展─火の言葉だけが残った─』
https://artspace-and-cafe-ashikaga.com/news/news_99.html

私自身、理解することが難しい時にやりがちなのだが、物事をカテゴライズし、それに当てはめて自身が納得できるように考えてしまうことがある。そもそも私は、カテゴライズすることやラインを引くことに対して嫌悪感を抱いている。しかしそれは表面的なことでしかなく、結局は自身の都合のいいようにカテゴライズしラインを引いていたのだ。

吉増剛造について、名前と肩書きはなんとなく知っていたが「詩人ですよね?」とギャラリーの人に質問をしたら「以前、東京国立近代美術館で開催された時は〈全身詩人〉とタイトルがついていた」と教えてくれた。そして話していくうちに詩人という枠では収まらない作品をつくっていることを知り「詩人ですよね?」と発した浅薄な自身を恥じた。私は自身で理解するために詩人であることを念頭において質問をしていたからだ。

ふとここで、昨日みた三島喜美代の展示を思い出した。三島氏は陶を素材として作品をつくっているが、陶芸作家というイメージはない。しかし、美術業界の中では長らく陶芸作家として受容されていたという。

三島氏の創作基準は「おもろい」である。インタビューを聞くと分かるが、「おもろい」という自身の物差しを基準に創作をしている。だから肩書きは関係ないのだ。にもかかわらず、無意識にカテゴライズして三島氏の作品を理解しようとする行為は、作家にとって余計なお世話でしかない。

「ずっとゴミばっかり作ってる。なんか、おもしろそうやなーって思ったから。みんな理屈をつけて、難しいことばかり言いたがる。私はただ、おもしろいと思うから」
引用元
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/81202

先日、桐生市にある大川美術館で菊地武彦のアーティストトークを聞きに行った。その際、館長が「美大で日本画、油画など分類されていることはおかしいのではないか」といった話をしていた。なぜその話をしたのかというと、菊地氏は岩絵の具、水彩を使って創作することが多いので日本画家とカテゴライズされがちだが、美大では油画を教えている。つまり「〇〇素材を使っているから〇〇作家」という考えは、作品を鑑賞する側のエゴでしかないのだ。

「ボーダーレス」なんて安易に口に出していても、結局は自身が納得するためにライン引きをしている。「私は大丈夫。そんなことは嫌いだから」なんてたかを括っていたが、美術作品を通して自身の考えが上っ面だけでしかないことを思い知らされた。もっと無になって「おもろいか、おもろくないか」で物事を考えられたらいいのに。シンプルな思考回路にするにはどうしたらいいのか。そんなことを考える休日だった。

三島喜美代の作品

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