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【セミナー参加】公開講演会「SuperMobility™時代の自動運転と車産業~企業経営文脈における「CASE」時代到来論への批判的議論~」

書くのが遅くなりましたが、2019年末に開催された 公開講演会「SuperMobility™時代の自動運転と車産業~企業経営文脈における「CASE*」時代到来論への批判的議論~」を聴講してきました。
https://www.rikkyo.ac.jp/events/2019/12/mknpps0000010oi9.html?fbclid=IwAR2PmoM_1GDWkCfj-U6u9uDJFNRzw_8958uuZjMl8LbxeyfrGYuNqkT53rY

どんなセミナー?

数年来のお知り合いで、立教大学大学院ビジネスデザイン研究科特任准教授でもある高柳寛樹さんのFacebookで開催を知りました。
立教大学の池袋キャンパスで開催されました
司会が高柳さん、講師は「間違いだらけの車選び」著者で有名なモータージャーナリスト島下泰久 氏でした。

題材は以下のとおり、とても興味深い内容です。

人間社会のMobilityに大きな影響を与えた車であるが、温室効果ガスの抑制議論の中で化石燃料から電動化に超短期間による転換を迫られている。同時に高度で急速なIT化と「チープ革命」によって移動コストと方法が安く多様になり「CASE*」を経済社会が受け入れることになっている。同時に所有の概念から共有の概念へ消費行動が傾きシェアリングエコノミーが構築されつつあるという言説において、では、具体的に何の基礎研究が何に応用されどんなテクノロジーが生まれどんな産業が無くなりまたは生まれつつあるのか。そもそもCASEは本当に起こっており人が消費社会の中で受け入れたいものなのか。自動車評論の第一人者である島下氏を招聘し「SuperMobility™」と「IT前提経営®」の提唱者である司会者とで議論しながら進める。

何を期待した?

CASE,モビリティの未来に関しては大変興味があり、個人的にも未来像を想像する中で、必ずしも世の中で語られる内容が正しくないのではないか、という疑問がありました。モビリティだけではなく、社会全体のあり方、都市のあり方まで広げないといけないテーマかと、日頃から感じています。
それについて「批判的議論」をすすめるということで、大変興味を持ちました。
また高柳さんはIT企業の代表しておられるなど、IT業界から見つめる立場での意見も、非常に共感をもって聞けるかと思いました。

何を学んだ?

自動車の自動運転の未来はバラ色なのか?」という疑問を呈する切り口で、前半は島下さんから「CASE」時代の到来における自動車産業のこれからについて、後半は高柳さんと島下さんとのディスカッションという流れでした。

内容については高柳さんが役員をされているWebimpact社のブログにまとめられているものを引用します。

ここ数年、自動車産業においての経営戦略として「CASE*」を掲げてる企業が増えています。また、交通手段、移動手段の変革をもたらす「MasS(Mobility as a Service)」というワードもよく耳にします。自動運転技術が進み、今よりもっと豊かでより素晴らしい未来が待っている!と期待をされている方も多いようです。果たしてそれが、私たち消費者にとって本当に素晴らしい未来なのでしょうか?

ここが今回の講演タイトルにもある、「批判的議論」というテーマに繋がっていたわけです。「CASE*、一つ一つの技術はすでに存在しています。しかし、その技術ばかりが先行してしまい、すべてCASE*が解決します!というのでは意味がないんです。先日も大きな被害となってしまった台風など、自然災害時に電気自動車を所持し、そこに蓄えがあるのであれば、家庭用電気に活用されるべきだろうし、移動がもっとスマートになるならば住居(生活拠点)の在り方が見直されるだろう、そして買い物の概念が変わってくるであろう。そういう部分部分で、CASE*で示されるものを上手く活用すると、MaaSに繋がるだろう。。。というイメージまではあるが、正直MaaSとは 『○○のことを言う』と定義できるものが今はまだないんです」と島下さんは語られました。

島下さんは、「何が大事なのか?」と訴えます。まず実現したいものがあって、そのために技術、開発があるべきではないでしょうか。との問いがとても心に響きました。

消費者の声や本当に必要な場所や分野に、CASE*が当てはまるのか、という視点で物事を見ることがこれからの時代、より大事になっていくのかもしれません。

どうだった?

私自身は、CASEという言葉は、それを提唱したメルセデスの車種名になっているところに、メルセデスの先進性をアピールしたいマーケティング的な意味しかないと思っています。

CONNECTEDはそもそも当たり前になっていき、テクノロジーとしては限りなく透明になっていくものと考えます。その際のユーザー体験は、メーカー自身がソフトウェア会社に変化しない限り、作り上げられないでしょう。

Autonomousについては、やはり、ローカルルール、アイコンタクトの問題が出てきました。完全自動運転がすべてのモビリティにはならない、というのが私の持論で、講演会としてもそこに近い意見でした、
またトロッコ問題や、緊急時に自動運転車がヒトに運転を返す対応など、解決しえない問題があると思います。
ここは、次のSharedにも繋がりますが、公共交通のあり方が変革するものだと思っています。

Sharedで自動運転車のほうからやってくる時代はわかりました。ではその置き場所は?Shareされる場所の問題があります。これは、今のコンビニや時間貸駐車場がステーション的な位置付けとなると思います。いかに需要地に近い場所にステーションを確保するか、がモビリティ企業の生命線となっていくでしょう。稼働率が上がるとすると、駐車場問題、渋滞問題、都市づくりの課題となっていきますが、だんだん家賃ビジネスに近くなっていくでしょう。また車体自体は10倍働くようになると10倍早く劣化する。販売台数は変わらないんでは?と思います。

Electrified、これは避けられないでしょう。内燃機関のエネルギー効率は良いですが、化石燃料のCO2問題に伴う法制変化と、そもそも部品点数が1/3で済むという点で、企業はEV化を余儀なくされます。

MaaSにも議論があると思います。
住居の問題と移動のコストを考えると、都市論でいくと集積しちゃえば必要なくなります。国土の効率的利用化を考えると、国民の住居権を制限しても効率化を進められる国が国力を増していくでしょう。
官製CASE 官製MaaSです。

現状、テスラ以外のカーメーカーの取り組みは、ソフトウェアカンパニー的にはかなり劣後してると思います。が、「信頼性」とか「安全に」は難しい
とりあえずβ版が許されるソフトウェア業界とはちがうのだということも理解できます。

電気自動車は今の車と置き換える使い方でよかったのか??
必需品だよねと言う前提のもと標準装備されていくと価格は上がっていく
高いものになった結果、車離れ 必需品ではなくなっていく。

という視点は大変興味深かったです。近いところでは、二輪車がそのような経緯をたどり、趣味車か仕事用に二極化していますね。

人間のテクノロジーへのアダプテーションは意外なほどはやく起こるということは1908年T型フォード発売の際の歴史でも証明されています。13年で、馬車で埋まる5番街がT型フォードでうまりました。

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おそらくイノベーションのジレンマに飲まれる既存メーカーを尻目に、新しい勢力が市場を支配していくでしょう。いや、もうすでに始まっているのを、見てみないふりをしているだけなのかもしれません。

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