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絶対にあってはならないことが起き、忘れてはならないことが忘れられる

とある祝福3世が事故に遭い、祈祷依頼が来ました。
しばらく前には別の2世が、白血病で亡くなったばかりです。
今回こそは、尊い生命が失われてはならないとお祈りしています。

私は分派ですが、親が子を思う気持ちは同じです。
神の息子娘としてお預かりした祝福2世は、公的な存在です。
その子たちが幸せになるかどうかは、他人事ではありません。

しかしながらこれまで、幾多の2世の生命が奪われてきました。
深く記憶に刻まれているのが、2014年のセウォル号沈没事故御嶽山噴火です。
セウォル号の沈没では、修学旅行に参加していた祝福2世が犠牲になりました。
御嶽山の噴火では、教会のイベントで登山をしていた食口と2世が犠牲になりました。

世の中には、天罰を受けるに値する極悪人が大勢います。
80億人類を悪い順番に並べて、神様が順番に処刑すればどれだけ楽でしょうか。
「処刑リスト」に入らないように、皆が競って悔い改めるようになるからです。
しかし実際には、善人が虐げられ悪人が良く眠るのが復帰摂理の常でした。
罰する神などいないと確信するから、世界がこれだけ悪くなるのです。

神様が愛する者を犠牲にされるとき、残された者は何かを学ばなければなりません。
私は御嶽山の噴火で大きな衝撃を受け、その後何年にも渡って命日のブログ記事を書きました。

本日久しぶりに、神様に談判しました。
「あなたはあの子どもたちが、惜しくはなかったのですか?
あれ程までの犠牲を出して、願われたことは何だったのですか?」と。

私の良心は、「祝福家庭の悔い改め」以外の答えを受け付けません。
あの時全祝福家庭が悔い改めて、天宙的葛藤を克服していたなら・・・
私があの子らの親でも、犠牲になっただけの価値はあったと甘受できると思います。

御嶽山噴火:あの日を忘れない

そうやって悔い改めの機会を逃していたと思ったら、安倍晋三先生が銃撃されました。
私は食口が「真犯人探し」や「不当な宗教迫害の阻止」を主張するのを見ていると、暗澹たる気持ちになります。
尊い方を失ったのが「私の責任」だと、未曾有の統一教会バッシングを招いたのは自分自身だと、どうして顧みることができないのかと。

銃撃を招いた杜撰な警備体制は、DSや中国共産党のような黒幕が存在したからではありません。
人間の全ての運命を掌握する神様が許諾されたから、殺害されたのです。

それを招いただけの罪が自分の中にあったことを、受け止められるでしょうか。
いまも多くの2世が自死という悲しい結末を選ぶそうですが、「一部の残念な例外」であり、私とは関係ないのでしょうか。

教団はこれまで、このような犠牲を積極的に利用してきました。
「供物」のような宗教的なオブラートに包んで、食口を鼓舞する「美しいストーリー」として語るのです。

私は銃撃事件の直後、今度こそ強情な日本食口も悔い改めるだろうと期待しました。
入り組んだ偽善と欺瞞を暴こうとあらゆる角度から発信したものの、その張本人たちは耳を塞いでいるのだから無駄な努力です。

神様には復帰摂理のタイムテーブルがある以上、海より深い忍耐にも限度があります。
ユダヤ民族はイエス様を十字架で殺害した後すら、悔い改める機会を与えられていました。
ところが「様子を見よう」と中立を保った律法学者ですら、最終的に違う人物をメシアとして選びました(バル・コクバの乱)。
「イエスではないメシアが、ローマから解放してくれる」という偽りの希望に、最後までしがみついたからです。

家庭連合にも同じ結末が迫っているのではないかと、胸騒ぎがします。

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