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謙遜の流儀

今年の6月頃、私は危機的な状況に陥った。

悪いことに、我が家の生計を支える主たる顧客(企業)がこぞって経営危機に直面し、事業規模を縮小した。その煽りを受けて私が担当している仕事への予算も削減された。

背景にあるのは、遅れてやってきたコロナ禍の影響である。

コロナ禍の当時は、飲食店がバタバタと倒れた。

利益を出すのが難しいといわれている飲食業界がまっさきにコロナ禍の煽りを受け、次々に廃業せざるを得なかったようである。

私の領域はいわゆる広告業界である。

コロナ禍当時は何とか切り盛りしていた顧客企業も、コロナ禍から数年というタイムラグを経て明らかに疲弊してきているのだと感じた。日本経済の根幹を支える業界であるにも関わらず──だ。

そうした状況において最初に打ち切られがちなのが広告費である。

私はその煽りを受け、収入の大半を失うすんでのところであった。危機的状況は何とか逃れられたものの、いずれにせよ予算が削減された現実は変わらない。つまり収入が激減することは明白だった。

しかし、いわゆるフリーランスで生きていれば、そのような状況は大なり小なり往々にしてあるし予想もできる。

私がいけなかったのは、そのような状況を想定しつつも、生ぬるい温室でずっとあぐらをかいていたことだ。

「いつかこんな状況が訪れるかもしれない」という想定は確かにあった。それでも重い腰を上げずにぬくぬくした。その結果の因果応報である。

カサンドラとぐっばいしてからもう3~4年ほど経つだろうか。

病んでいた当時は自分を甘やかす療養にフルコミットしていたので、本当にあぐらをかいていた。大して働きもせず、それでもこれまで培ってきた技術や能力やキャリアを担保に、とにかく自由人よろしく自由奔放な生き方をしていた。

「大して働かず過去の遺産で収入を得ながら心身を休息させる」というやり方は、メンタルを回復するために必要な処方箋であったのは確かである。しかしそんな生ぬるい土壌に浸かるに浸かりまくった私は、やがてメンタルが回復してもそんな現状に甘んじていた。

6月に危機的状況を迎え、実際に危機感を覚え、私は本当に久しぶりに(数年ぶりに)営業をした。

結果、その翌月の月収はここ数年の最高値を叩き出した。

「ほら、やればできんだよ。だから危機的状況に陥っても絶望しねぇんだふふん」と思った。

これはもうバカの思考なんだよな。

実際のところ、このバカレベルの自負や楽観は、経験に裏付けられている実績と自信があってこそでもある。

「仕事や収入なんて何とかしようと思えば何とかなる」ってことを経験則で知っている。

スキルや知識やキャリアや実績という無形財産があれば食いっぱぐれない事実を体感と経験として知っている。

問題は「生産的な行動を実行するか否か」だけだ。

今回は危機的状況だったから何とかした。

だから何とかなった。

でもそれじゃアクションが遅いんだよ。何とかしなきゃならない局面に直面してようやく何とかする気になったの?人生舐めすぎだろてめぇと思ったわ普通に(自分に対し)。

そして、ずっとあぐらをかいていた自分をようやく猛省した。

もうメンタルは回復しているのだし、いつまでも仕事をいただく立場で「仕事をくださるクライアント様」に寄生したり依存したりしてちゃいかん、と。

そもそも私はフリーランスクリエイターである以前に事業者なのだ。

マーケティングが好きだし得意なのだ。

そっちが主題だろが。何をスキルやキャリアにあぐらをかいてぬくぬくしてんだよはっ倒すぞてめぇと思った。

カサンドラに起因してあらゆる事業を手放してしまった時、もしかすると私はやさぐれていたのかもしれない。

「10年もかけて育てた事業が、こんな感じであっけなく終わるん?やってらんなくね?」という気持ちが当時は確かにあった。

今思えば実際にやさぐれていたっぽい感じで生きていた期間もある。

で、能力とキャリアといういわゆる過去の栄光らしきものにしがみついて生活する状況にやがて居心地の良さを覚え、依存してしまったのだと思う。

危機的状況を脱して胸をなでおろしたタイミングで、私はたまたま色々な顧客との過去のやり取りを振り返ってみた。

メールやチャットなど顧客との様々な履歴を改めて見返してみたのだ。

すると、色々な方に感謝されていたことがわかった。私が感じていた以上に。そこにはこれまで関わってきた方々の私に対する感謝の言葉が溢れていた。

でも、当時の私は彼らの感謝の言葉に伴う体温らしきものを認識していなかった。

正確には「認識することを拒絶していた」のだ。

「人からの感謝の言葉を真に受けない」みたいなスタンスや習慣が昔からあったからである。

人からの感謝の言葉は危険なのだ。

なぜなら感謝されると感情的に充足されるから。

人から感謝されるのが嬉しいのである。

だからこそ「甘え」や「怠慢」が生じやすい。

この「感謝されて嬉しい」という感情は、自分の精神的な脆弱性だと私はずっと思って生きてきた。だから「感謝されることを目的に行動すること」を(とりわけビジネスにおいては)できるだけ避けてきた。

「感謝されると嬉しい」という自分の感情に反発し喧嘩を売ってきた形である。

自分自身の精神的脆弱性を克服するには、「感謝されることに満足する」のではなく「先方の利益に具体的にコミットする」という結果や成果を出し続けなければならない。「自己満のために行動しない」というのは、あらゆる側面において私の人生の命題と言っても過言でなかった。

だから感謝されても「ありがとうございます。今後とも引き続き何卒よろしくお願いいたします」と言いつつ、内心では「俺の情緒を満たしてくれるな!満足してあぐらをかいちまうかもしれねぇじゃろがい!」みたいな抵抗があった。

それこそマナーとしての形式的な感謝の文言であれば私も感情が揺さぶられることはないのだけど、文字を介した言葉から伝わるパッションってあるよね。そういう高いパッションを延々と見返してみた時、当時の私は自分を甘やかさないため(現状に満足しないため)に、他者の言葉に対して心を閉ざしてしまっていたのかもしれない──と思った次第である。

他者から見ると、私のこのスタンスはとてもストイックに見えるらしい。「あなたは本当に私達のことを考えてくれているんだね」という評価になりがち。

実際にそうではある。先方の利益に具体的にコミットしようとする以上、仕事とは真剣に向き合う。「お前の能力はこの程度か」と舐められたくない心情もある。

一方で、私は感情的に「あなた達やあなた達の事業やビジネスが本当に好きだから貢献したい!」と思っているわけではないのだ。基本的に情で働いているわけではない(とはいえ公私ともに情緒的にも思想的にも賛同できるお相手としか付き合わないという方針はあるが)。

私のこういう姿勢は、他者からするとストイックに見えるし謙虚に見えることもあるのだろう。とりわけ「謙遜」らしき態度は評価されがちである。

ありがたい評価ではあるが、私自身としては「顧客の利益へのコミットに手を抜かないために必要な自己管理術」である。マナーとしての謙遜はすることはあるが、根源的には「自分を甘やかさないための方策」なのだ。

とはいえ、先述したように顧客方々とのやり取りの履歴を振り返った時、「俺ってこんなに感謝されていたんだな」と素直に感じたし、それが嬉しくもあった。

今までは自己管理やパフォーマンスやモチベーションの維持のために、他者の感謝の言葉にはできるだけ感情的に反応しないようにしていたようだ。鈍感に努めていた。そんな自分をもうそろそろ解放してあげてもいいのかなーと思った所存。

実際にそうするかどうかは別として。

私の自分自身に対するストイックさは、顧客には「謙虚」「謙遜」のように見える。

でも、私自身は謙遜しているわけでなく、単に「常に自分の課題に挑戦しているだけ」である。

それはマナーや礼儀礼節よりももっと重要な「自分自身の在り方」という命題に迫る(私自身にとって)重要な課題である。

私の謙遜は自己否定的ではない。

むしろ「俺はその課題を達成できるはずだ」というビジョンがあるからこその挑戦である。

結果的に「謙遜」に見えるだけで、実際には「自分への挑戦」だ。

俺がいちいち謙遜するわけねぇだろめんどくせぇ──という軽口が「らしいねー」と、多くの関係者から肯定的に笑ってもらえるようになるまで、これからも自分自身に挑戦し続ける自分でありたい。

ま、多少は解放しつつ。

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