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重要かもしれない雑記

今日は酒を飲みながらの徒然なるしょーもない雑記なんだけど、でも一回ちゃんと書いておきたいことがあって。

ほんでこの「ちゃんと書いておきたいこと」は、実は私が昔からずーっと一番大切にしてきた価値観で、だけどなかなか人には伝わらなくて。だから「まぁ別にいちいち言葉にしなくてもいっか、価値観や生き方なんて人それぞれだしめんどくせっ」みたいな感じで半ば言語化を諦めていた部分でもある。

とはいえ、先の記事で宣言した今後配信する有料記事を補足する内容でもありそうなので、興味ある方はどうぞ。

ま、今回は一人のアラフォー男の人生においてめちゃくちゃ大切だった心得の話──ってことでサラッと読んでもらえれば。

で、いきなり結論から言うと、自分の人生で何を一番大切にしてきたかというと、「ちゃんと遠回りをする」ってことなんだ。

それは「目先の便利さに安易に飛びつかない」ってことであり、同時に「楽をしたい」「ローリスクハイリターンを狙いたい」「ショートカットで成果をあげたい」「不安な思いをしたり怖い思いをしたり不便な思いをしたくないから便利なものを頼り依存したい」といった、自分自身の根源的な甘ちゃん欲求そのものとしっかり向き合いしっかり克服する心得──ってことでもある。

他にも言い方はある。「試行錯誤をためらわないビジョンを持つ」とか「失敗やサンクコストの有益性を知る」とか「ちゃんと備える」とか。

ま、抽象的だよな。なので具体例をあげながら少しずつ解像度を上げていきたい。

私の人生における最初の象徴的な出来事がこれ↓

若い頃、私は音楽小僧だった。プロ志向かどうかはともかく、いつか音楽やそれに近い界隈で生計を立てることになるだろうと思い、小中高は細々と作曲活動をし、20歳半ば前くらいで開花し、その後は実際に音楽事業を立ち上げるに至った。

小中高の当時は今ほど誰もがPC一つでDTMやDAWやデジタルプラグインで簡単に作曲や編集やレコーディングやミックスやアレンジやマスタリングができるような環境ではなかったし、そもそもMTRすら親のすねかじりのガキには高値の花。レコーディングだって苦労する時代だった。

金のないガキには音楽スタジオのレンタル料金だって痛いし、増してマイク1本の購入だってためらうような時代だ。サウンドハウスだってなかったしね。

もちろんインターネットだってこんなに発達していなかったから、サウンドワークに関する情報源なんてそれこそ実際にレコーディングスタジオで働いているイカつい先輩兄ちゃんとか、ライブハウスで働いているPA連中とかしかなかった。

そんな中でガキの私はレコーディングやミックスのイロハのイも知らないような状態で、親から買ってもらった粗末なダブルラジカセ(2枚のカセットテープを1台のラジカセにセッティングし、一方のテープ(A)を再生しつつもう一方のテープ(B)でテープAの再生音とともにマイクなどでインプットした音を重ね録りできるタイプのラジカセ)でオーバーダビングしながら、しこしことトラックを重ね自分の曲を作り上げていった。

リバーブを再現するために風呂場で録音したり、今では100均で当たり前のように売られているスプリング式のリバーブマイク(子どもの玩具。当時は縁日など特殊な販路でしか入手できなかったので超貴重だった)を改造して録音──とかもやった。

ていうかカセットテープって知ってる?知らねぇ人多いよなきっと。今から30年近く前の話だけど、当時はマジで化石みたいな音楽インフラだったんだよ。化石インフラで生きてきた昭和世代なめんなマジで。

で、レコーディング用のエフェクターの存在も知らず、とにかくひたすら10年くらい、小学生から会社員になってからもずっとそんな調子で曲をめちゃくちゃ書きながらミックス作業ばかりしていた。無知なりにプロのミュージシャンの音を目指しながら。

「なぜプロみたいな音にならないのだろう?」という疑問は常にあった。プロの連中がどうやってレコーディングしているのかもよく知らなかった。

21~22歳くらいになって、遂に私はコンプレッサー(音圧を平均化する機材)と出会った。「俺に足りなかったのはこれか!」と、すぐにピンときた。安いMTRを使ってミックスし、適当にコンプレッションしたら見違えるような(まるでプロのような)作品ができた。この頃から様々なエフェクターの活用法を学び、メキメキと頭角を現した。

パァーッと霧が晴れたような爽快な気分だったよ。バカみてぇに10年もミックスばかりやってたんだから。

でもこの「バカみてぇな10年」の試行錯誤が、実は自分にとって一番の財産であったことを自覚するまでにそう時間がかからなかった。

なんせ、ズブの音楽トーシロのくせに、ミックスバランスにかけてはもはやベテランだったのだ(逆にミックスバランスがドヘタクソなエンジニアが私の周りにはたくさんいた)。

基本的に生音主体の楽曲(特にバンドサウンド)は「素材さえ良ければ後は何とかなる」のだ。寿司と一緒。食材がちゃんとしていれば、後は最低限の技術でそれなりに形になる。素材がダメだったら、いくらシャリ炊きや握りの技術が上手でもなかなか至高には至らん。一流の寿司職人はそれでも高い品質を維持するから素晴らしいわけで。

ダブルラジカセの一発録音オーバーダビングで培ってきた10年に渡る試行錯誤は、間違いなく「私の音楽的センス」の一部を培った。

寿司の話をしたので、せっかくだから寿司でも例えてみようと思う。

例えるというか、構図的にはまったく同じなのだけど。

一流の寿司を握るには、昔から「シャリ炊き3年握り8年」とか「シャリ炊き3年、合わせ(寿司酢と飯を合わせる「おいしいシャリ」を作る作業)5年、握り一生」などといわれている。

これに対し、いつだったかホリエモンは「そんな10年ほどのムダな時間を割かなくても、寿司アカデミー(寿司職人養成スクール)に通って基本的な技術を修得すれば、タイパコスパ良く寿司職人として起業して成功できる。古めかしい価値観や伝統に律儀にしがみついて人生の大切な10年をドブに捨てる奴は効率が悪いバカ(完全なる意訳」と一刀両断した。

このホリエモンの言葉は(ビジネス的には)確かに一理ある。

寿司はなんだかんだネタが主役なので(諸説ある)、とりまネタさえ良ければそれ以外がいまいちでもそれなりに形にはなる。

もちろんシャリがべっちゃりしていたら、いくら上等のネタでも台無し。でも、ネタの品質にそこそこ普遍的に耐え得るシャリ炊きを修得するのに3年もいらんだろってのも事実。

ここに落とし穴があって。

「シャリ炊き3年握り8年(あるいは一生」という言葉の中には、「見たことも触ったこともないようなネタに対応する目利きや感性や技術や発想の引き出しがあるか否か」みたいな、あまり明文化されていない職人技のディテールまで含蓄しているんだな。

一流の寿司職人の何がすごいかって、「優良な食材が当たり前のように供給されるような状況でなくとも(つまり粗末な食材しか入荷できない状況になっても)一流の寿司を提供できる」ってところなんだ。

この辺に日本料理とフランス料理のシンパシーがある。

これ、寿司アカデミーをはじめ各種料理学校で教えられる領域じゃないんだよ。経験と挑戦(自己研鑽)でしか学べない領域。知識や教科書だけでは補えないいかにも人類くさい部分。

「不十分な品質の素材しかない状況にあってもうまい寿司を提供できる知見や応用力やアイデアを創出できるかどうか」の、ひどく人間的なクリエイティブ領域である。

上等のネタ、上等の米、そして握り寿司の最低限の知識や技術があれば、トーシロだって練習すりゃ短期間であっても(センスによるが)それなりにうまい寿司は握れる。

しかもみんな回転寿司でバカみてぇに喜んでんじゃん。大衆の攻略はそこそこイージーだと思う。ビジネス戦略はともかく品質としては。

トーシロとプロの違いは、下等なネタ、下等な米しかなくても、これらを上等に仕立てる知識と経験と技術と創意工夫と発想があるか否かだ。

わかりやすく言うと、日本産米がまったく流通しなくなったとして、もち米とかタイ米しか手に入りませんって状況になっても、すきやばし次郎はそれでももち米やタイ米を使って一級の寿司を提供すると思う。そんな話。

「極限で生き残れるか否か」とか「極限でも一流でいられるか否か」みたいな。これはもう知識や技術で賄えない。学校で教えてくれないし教えようがない、自己研鑽があってこそのステージである。

音楽も同じ。

現代は、各種プラグインやアプリや音源を使って「いい素材」を簡単にカスタマイズし運用できる現状ではある。プリセットを使えばミックスバランスだってマスタリングだって、波形を読む知識がなくても誰だって簡単に再現できる。

でも、便利なツールに依存すればするほど知識欲は阻害されるし、差別化が難しくなるし、ツールを奪われたら無力だし、「便利なツールを使えなくなった時」にそれでも揺るがないパフォーマンスで高品質の商品を提供するのが難しくなる脆弱さがある。

つまりツールや知識や小手先の技術への依存は、「いざとなったらなんだかんだ誰にも勝てない=自分の価値を明示できない」のコースを辿る「敗者のマインド」だと私は思うのだ。

「試行錯誤と工夫と研鑽の経験」がないんだからそりゃそうだよな。教わったことしか再現できない人間は、どんな業界においても常にうだつが上がらんだろ。ツールに依存する奴はサバイバルできないのだ。

便利なツールが増えました。学校に通えば誰でも最短で寿司を握る技術を修得できる環境です。じゃあもうレッドオーシャンじゃん。最後どうやって優秀な競合に勝つの?ってなった時の唯一の拠り所が、それこそ私がバカみてぇに10年もの歳月を費やしてミックスしまくった「試行錯誤と失敗と創意工夫とバカな実直さ(という名のビジョン)による経験」らしきものなんだよな。

血肉が通った「Myコンテンツ」を持ってるか否かである。

寿司アカデミーでは学べない明文化が難しい領域に挑戦し続ける職人の強みである。

便利なツールに依存せずに自己研鑽して遠回りしまくる奴の強み。

この強みを私は昔からずっと自覚していたし、「最終的にこれが強いだろう」と予測もしていたし、このビジョンの正しさを昔はもちろん昨今はより強く確信している。

音楽や料理の話は少し専門的なので、ここまでよくわからんような言葉も使った。話の筋がよーわからん人もいるとは思う。わかりやすくかみ砕かなかったのはごめんだけど、とりま私の原体験として率直な言葉で記しておきたかった。

ここからが本題。

音楽や料理は、確かに「技術的な側面」がある。でも、私はここまでいっさい技術の話をしていなくて。冒頭らへんで言ったように「ちゃんと遠回りするか否か」に尽きるんだ。

知識や技術は後から勝手に着いてくるものなので、別にその辺のクオリティはどうでも良い。「ちゃんと遠回りする用意や覚悟があるか(つまりビジョン)」がとても大切で。

言い方を変えれば「遠回りの価値をどれだけ知っているか」とか「失敗の価値をどれだけ理解しているか」みたいな話。「失敗は成功の母」という言葉を、知識でなくどれだけ経験で語れるかみたいな話である。

実際、成功よりも失敗を語れた方が、人生ってなぜか豊かになるんだよ不思議と。

「便利なツールに飛びつく前にとりま自分でできるとこまでやってみよう」という精神はとても大切。そして、その精神や人間力は今後いっそう重宝されるようになる。間違いない。既に人類はそういう道をとっくに歩んでいる。siriやアレクサやDXが話題になればなるほど、生身の人間の価値が相対的に上がるんだ。なぜって、人間(消費者)はなんだかんだ最終的にはAIや便利なツールでなく「人間」が好きだから。体温が好きだから。思いやりや真心が好きだし、もっといえば「感謝」が必要なのだ。人間社会には。

だからシステマチックに人間っぽい体温を見限って最新のテクノロジーに乗っかれば乗っかるほど、個体もビジネスモデルも弱体化するんだ。デジタルテクノロジーが台頭している昨今だからこそ、逆にそういう道を歩んでいる。

さて、音楽経験に次ぎ、次点で象徴的だと感じたのが「発達障害問題」である。ま、他にも色々あったがとりま割愛する。

X(当時はTwitter)を始めてから、けっこうな割合で「生きるのがつらい」と言う発達障害当事者と出会った。

私が弟に対して残酷にも「お前は無能」と感じたように、生きづらい彼らの周りにも「あなた(彼ら)に対し悪意なく無能のレッテルを貼る多数派側社会人」がいたのかもしれない。

だけど、私はいつからか覚えていないが(とはいえ割と早めだった)、そんな彼らが尊く思えた。単純に敬服した。

自分に合わない環境にあって、周囲から蔑まされて、それでも何とかうまく社会適応しようとして、結果的にはメンタルを病んでしまった人もいるかもしれないけど、それでも生きるために必死にもがいて努力や工夫をしているように見える人が多かった。

社会に対し誠実だと思った。

私は発達障害者のリアルを知りたいと思ってXのアカウントを始めたから、つまり自分の感情的な発散やガス抜きを最初から目的としていなかったから、SNS界隈の一般的な定型(?)とは少し異なるムーブをしてきたと思う。

「知ること」を目的に、一般的にはタブー視されがちなトピックにも鋭く切り込んできたつもり。感情抜きで。

とはいえね、発達障害者のリアルで生々しい言葉を聞くたび基本的にずっと心が痛かった。

当事者連中の心の叫びみたいなエグいメッセージと直面する機会もそこそこ多かった。感情移入するつもりはないが、それにしたってこの社会ってどうなん?──みたいな疑問や懸念やもどかしい気持ちはずっとある。

ずーっと社会適応を試みて、それこそ服薬しながら通院しながら何とか生活している人達。めちゃくちゃ頑張ってるじゃん。その努力はなぜ評価されないのか。単純に資本主義由来の生産性や利益性という結果にコミットしていないからだろうとは思うが。そんなんで彼ら当事者の努力や苦労や苦悩があっさり切り捨てられる社会に属しててめぇの人生は幸せそうか?と自問自答すると、私は完全に「No」なんだよな。

利益とか金とかそういう領域じゃないもの。倫理とか道徳とか愛や尊厳の領域。

私がバカみてぇに10年間ミックス作業を繰り返していたのと、それと同じくらいの時間をかけて日本の古き良き(悪しき?)伝統に身を捧げた寿司屋の小僧。定型社会への過剰適応に負担を負いながらやりくりしてきた発達。これ全部ほとんど同じベクトルの尊さと誠実さがある。

定型社会に適応しようとしてめちゃくちゃコストを払っている発達連中(一部だったとて)の選択は、私は普通に人間的に尊重されるべきだと思うし評価されなければならないと思うわけ。でなきゃやってられねぇって。そんな無機質な社会。

社会活動上における相互の利益性や多様性よりももっと手前の話。人としての尊厳や権利の話である。

昨今の川口あたりの移民トラブルのように「自己のアイデンティティ確立のために異文化フィールドを侵略したがる外国人」みたいな侵略者なら話は別だが、苦悩している発達連中は何とか「適応しよう」としているわけだから。もうこの時点で調和意思の尊さが尊重されるべきだと思うんだよな。

音楽とか料理とかビジネス界隈などあらゆる商活動におけるコストって、技術や利益などで数字的に可視化されやすい。だからスキルが高い人間は重宝されがちだし、そういう技術や実績があった方が収入が得やすいとか生きやすいみたいな事情はある。

でも、人間が人間らしく生きるのに本当に大切なのは「そこじゃない」のだ。

商品としての価値なんてマーケットが決めるもんだから、実は技術や知識や利益性などはQOLにそれほどコミットしない。

何が起こっても食いっぱぐれない寿司屋を経営したいがために、現代的には一見するとムダと思われがちなキャリアをしっかり積むとか、バカみてぇに10年も費やしてミックスしまくるとか、苦悩しながらも社会適応するために決して短くない時間を費やして試行錯誤するとか、この辺はもはや努力や苦労というより「研鑽」の領域である。

人間の苦しみや悩みや不安ってのは、基本的に克服が難しい。こいつらに薄手のカーテンみたいな「常識」や「政治」という名のベールをまとわせ、(今を)何となくうまくやり過ごすための一時しのぎ的な手段を見出した方が短期的にメンタルは楽だと思う。

でもやっぱ自分の苦しみとか悩みとか、人生の課題とか問題とか、もがきながらもそういう「小手先ではどうにもならないような、芯を食ったガチな人生課題」と向き合い続けた人が最終的に魅力的なのは当たり前なのだ。

そういう誠実な人間が正当に評価される社会であってほしい。

現実的にはまだ難しいかもしれない。

であればこそ、少なくとも私自身はそういう人を正当に評価し、正当に敬意を払える人間でありたい。


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