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安保瑠輝也と安保璃紅の関係性に思うこと

YouTubeの安保瑠輝也チャンネルにおける安保瑠輝也(あんぽるきや)&安保璃紅(あんぽりく)兄弟の最新動画(2024/8/5時点)の彼らのやり取りを見ていて、弟との関係によりカサンドラ症候群全開でメンタルを病んだ当時の記憶が一気に蘇った。

フラバではない。単に「久しぶりに(割と鮮明に)当時のことを思い出した」だけ。

この動画をみている時、横にいた妻が「ちこちゃんと弟を見ているみたい!」と言った。まぁなんとなく両方ともキャラがかぶってんだよな。私も妻と同じように感じながら彼らのこれまでのストーリーを眺めていた。

安保兄弟のトラブル(?)の経緯は安保チャンネルで配信されているので、気になる方は上の埋め込みから過去動画を遡ってどうぞ。

概要を簡単に説明すると、兄ちゃん(安保瑠輝也選手)は言わずもがな、既に2024年の日本格闘技界のシンボルと言っても過言ではないくらいいっそうの活躍をされているキックボクシング・ボクシング・(総合格闘技)の格闘家で、弟の安保璃紅選手も第5代Krushスーパー・フェザー級の王座を獲得した実力派キックボクサーである。

名実ともに「格闘家安保兄弟」で売ってもいいくらいの実力と実績と知名度を十二分に持っているにもかかわらず、ふらふらしてしょーもないように見える弟さんと、そんな弟の格闘家としての資質や可能性を認めつつ、社会人としての不甲斐なさへの失望と期待を繰り返しながら、弟の不遜な態度に翻弄される兄弟愛憎劇。

安保兄ちゃんは「お前俺を舐めてんの?」と弟さんに思っているかもしれん。でも、私の所感だとかなり高い確率で弟さんは兄ちゃんを「舐めてない」だろうし、なんなら「尊敬する兄貴になぜこんなことを言われてしまうんだろう?俺って本当にダメな奴だ……」くらい思っている可能性すらある。

安保兄ちゃんわかってる?わかってねぇよな!わかってー!──という気持ちで拝見した8/5の夜(8/5は親子丼の日らしいよどうでもええわ)。

さて、私は専門家でないので「璃紅さんは私の弟と同じく発達障害だろう」と断言するつもりはない。というかぶっちゃけ璃紅さんが発達障害かどうかは割とどうでもよくて、どっちかっつーとお兄ちゃん(や周囲の人間)が「人間の脳の多様性」を理解するのが急務かと思う。

安保兄ちゃんの「弟のこんな態度や対応、理解できへんわ」はわかる。常識的に考えて普通にむかつかざるを得ない態度や行動をとられてるわな。動画では見えない部分でも色々あると思う。

でもその時、弟さんに「兄貴に反抗したろ」「兄貴なんかムカつく」という感情がまったくなかったら……?たぶん解釈の仕方や印象がだいぶ変わるんじゃないかなーと思うのだ。

こちら(兄サイド)からすると「反発感情も敵意もないのにフラットにその態度はどういうことなん?舐めてるよな?いやでも舐めてるわけでもなさそうやな。え、どういう心理?理解できねぇし俺におんぶで抱っこでフリーライドすんじゃねぇ甘えんじゃねぇ能動的に努力しろよ大人だろうがよクソが」と思うわけ。安保兄ちゃんがそう思っているだろうという話でなく、当時の私自身がそう思ったって話。

弟と私とでは、あらゆる行動(特に情緒的な側面において)における機序や動機や目的や思考や習慣が違ったようだ。

つまりこれはもう感性(脳のシステム)の違いなのだ。

理解できないようなむかつく態度を誰かにとられたら、そりゃこっちとしては「てめぇ舐めてんのか」となるけど、舐めてもないし煽るわけでもなく、フラットに「こっちがむかつくムーブを普通にかましてくる奴」っているんだ。

相対的にはこっちもあっちに対して意味不明なむかつきムーブをかましている(たとえば変に空気を読んで建前上の嘘をつく、他者に対して社会便宜上あるいは政治的な作法として一見すると不誠実に見える行動を取るなど)をかましている可能性もある(というか多分往々にある)。

感性の違いによる悲しいすれ違いとしか言いようがない。

「こっちの基準でジャッジした結果むかつくムーブをやっちまってるお前が悪い」のか、「こっちの基準で判断して勝手にむかついている自分が悪い」のか。難しいところよね。どっちも悪くないんだけどね。

だから感性が異なる相手に対して感情的に怒る意味はないし、クレームをつけたところで相手はこちらの心情を理解していない(相対的にはこちらも相手の心情を理解できていないからお互い様)ので、感情論や根性論での決着を試みるよりも「世の中には自分と感性や文化や脳や感情の機序が異なる人間が存在する(たとえ家族や兄弟でも)」という事実をまず理解する必要があるんだな。

ここが多様性のスタート地点だ。

この視点がないと「さ、合理的に相互の不満を解消しましょうか」というステージに立てない。

まさか血の通った家族が自分とまったく異なる機序で生きているとは私も思わんかった。むしろ「一番近しいだろう」とすら思っていたけど、現実は違ったな。まぁそれが現実よ。

さて、安保璃紅の表情や応答などが弟とめちゃくちゃ似ている。私は安保瑠輝也のように弟を詰めることをしなかった(一度だけ実験的に試みたことはある)が、安保瑠輝也と性格や気質は似ているところがあると思う。動画を拝見し、まるで当時の弟と自分を見ているような気持ちになって、久しぶりに当時の感情を思い起こした。

繰り返すが私は専門家でないので軽率なことを言えないが、お兄ちゃんは弟に発達障害の検査を勧めた方がいいのではないかと感じた。

白だったら白、黒だったら黒で診断結果はどちらでもいいと思うが、一番大切なのは発達障害というテーマを通してお二人が人間の多様性について考える機会を得ることである。

私の弟も話の途中にあくびをしたり、どかんと足を組んで太々しい態度をとったり、話を聞いているのか聞いていないかよくわからないような生返事が多かった。そんな彼の態度を見て「てめぇ舐めてんのか」「立場や状況をわきまえろよバカが」と思ったことが星の数ほどある(口にはしなかったが)。

でも弟は、特別な話をする時にとりわけそういう態度になるわけではない。普段からそうなのだ。普段から不遜という意味でなく(性格的にはむしろ謙虚)、逆に「TPOをわきまえられない(空気が読めない)から、重要な局面においても普段と態度が変わらなかった」だけなのだろうと思う。

ある意味スタンスを一貫しているのだけど、その一貫性にこちらは不満を覚えるわけだ。

もし彼と私が逆の立場で、たとえば私が悪意をもって(それこそうぜぇ先公の説教を聞かなきゃならない不良の立場として)わざとあくびをして「てめぇの話は退屈なんだよ感」を演出したり、太々しい反抗的な態度をとったりしても、彼は気に留めないのだろう。

なかなかでかい感性の隔たりである。

私を含む大多数の人は、弟のような人間に対して「大事な話をしているのになんだその態度は」と感じるだろう。理由は、大多数の人がそんな態度をとる時は「悪意や反抗心や不満をもってあえてそうしているケースが多い」からだ。だから私は弟に対し、私に対する悪意や敵意や反抗心なるものがあるのだと当初は推測した。

とはいえ早合点はせず慎重に最終判断をしたかったので検証も行った。

だからこそ適切に着地できた。

さて、上に掲載した安保兄ちゃんの最新動画で、兄ちゃんは弟に「絶縁」を宣言した様子である。気持ちはめちゃくちゃわかる。でも安保兄ちゃんはこれで絶縁できんと思う。だって血を分けた弟ってやっぱ特別なんだよ。幼少時代の兄弟の思い出だってたくさんある。家族なんだからBADな記憶もあればHAPPYな記憶も色々あるよな。

子どもは親を捨てることが比較的簡単にできると思う。でも弟や妹を見限って捨てるのはなかなか難しいな。我が子は言わずもがな。ムカついたり兄弟喧嘩をしたりしても、それすら時を経ると人生の美しい思い出になっちゃうんだもの。親から虐待されたら憎悪しか残らんが兄弟はそうじゃない。

今の安保兄ちゃんの感情はよくわかるし、それにがっつり共感あるいは感情移入するところも個人的にはある。でも、安保兄ちゃんのやるせない思いの原因は「弟が異常だった」からではなく、「自分が未熟だった」からでもなく、単に「脳の多様性について相互に無知だった」からではないかと感じる。彼らの(我々兄弟がそうだったように)運命が情報に左右されているのだ。

カサンドラ当時の私が弟に失望し、憤り、それこそ心を病むまで向き合いながらも立ち直れたのは、最終的には「すべての責任を弟にも自分にも押し付けなかった」からだ。

「人間ってこんなに多様なん?」と、にわかに信じがたい時期もあった。でもどうやら多様性は事実だった。現実は現実でしかなかったので、現実を受け止めざるを得なかったという感じ。現実や事実はともかく自分の感情は自分で処理するわい──という気概がないとなかなか難しい作業だとは思う。

すべては「知っているか知らないか」に尽きる。

感情論でも根性論でもなく「情報の量と質」だったな。

とはいえ大多数の人間は基本的に感情で生きているから、この辺をうまく処理するのは現実的になかなか難しい課題なんだろうなとは感じる。

ところで多様性って便利な言葉だよな。誤解してもらいたくないのは、多様性を免罪符にあらゆる個性を認めましょうという話をしているわけではないんだ。

少なくとも私は「多様性」をそんな生ぬるく解釈していない。嫌いな奴は嫌いだし(嫌いな奴は皆無だけど)、他者を拒絶もすれば否定もする。むかついたら時には暴言らしき言葉も吐く。そんな自分を許している。ええやん人間だものうるせぇよって気持ち。品行方正であろうとも思わん。最近も知らねぇおっさんと喧嘩した。別に気に入らない奴と喧嘩するのはいいと思う。

問題は「気に入らないからって相手の尊厳まで貶めたろう」みたいなメンタルな。

スポーツマンシップの話だ。

スポーツに限らんけど、たとえ競うにしろ闘うにしろ争うにしろ喧嘩するにしても相手への敬意を欠かしちゃいかん。尊厳を侵略しちゃいかんのだ。人間という生き物やそれ以外への生命も含めて「命への尊重」の話である。思いやりや真心や誠意やおもてなしの根源もここに尽きる。

多様性を認めるとか許すとかなんてそれぞれで勝手に判断すればいいだけの話で、私にとっては割とどうでもいい。それぞれが好きにやったらええやん。好きに生きたらいいんじゃないってだけの話である。

それ以前に「世の中には自分と異なる感性や文化を持った人間がいることを知っといた方が自分も他人も幸せになれる確率が高いよね」って話なんだ。

「多様性を理解できるか」や「多様性を許容できるか」以前の話で、シンプルに「人間や生物は多様であることを知る」のが肝要である。

私はカサンドラ当時、弟と真っ向から向き合うまで人間の脳の多様性についてほとんど知らなかった。知識として知っていた部分はある。外国人と接する機会も比較的多かったので、文化的な多様性に適応できる土壌はあったのかもしれない。しかしそれでも弟と自分の「感性の違い」は信じられなかったな。「兄弟なんだからパフォーマンスも同程度だろ」とすら思っていたし、つまり多様性を“まったく信じていなかった”。

多少の差分はあれ、人間なんて大体は似たようなもんだろ──と思っていた。

現実は違ったな。

私の印象だと、安保兄ちゃんは弟ちゃんに対して「俺と同じ感性を持った相手」と思い込んでいるように見える。

私自身も弟に対してそうだったし、安保兄ちゃんが当時の私の気持ちを代弁するような言葉をかましまくっている時点で、あながち的外れな見解でもないように思う。

だって社会の大多数は「大多数のこちらの機序」で動いているから。マジョリティだからそもそもマイノリティな感性に気付く機会があまりない。エンカウントしても流しちゃうわな。

逆に言うと、弟との体験を通して人間の多様性に気付く機会が得られたのは、結果的に私の人生にとってとても有意義だった。多様性への理解が深まれば深まるほど、他者の尊厳を尊重する手段が増えるからだ。

それは私にとっては素晴らしい体験であり知識である。

安保兄ちゃんは、弟を気に掛けるからこそムカつくんだと思う。一般的にはこれを「愛のムチ」というのかもしれない。でも実態は違う。愛のムチでも何でもない「相互の無知」により生じている悲しいすれ違い──のように私には見える。

ラップするならこう。

愛しているからこそ打つ鞭
検討違いの外れ値
相互に抱える無知の知
それが成り立っちゃうよな愛憎劇
ほんで社会人はこうあるべき
とか社会で運用される常識
不毛さを知った今刷新
体現したるわダイバーシティ

安保兄弟の展望は明るいと思っている。

なぜなら安保兄ちゃんはちょっとバカっぽいところがあるが、基本的に物事を体系的に理解するのが得意なように見えるし、格闘家としてあるいは生来のメンタルの強さやポジティブさがある。

仮に彼がメンタルを病んでしまっても、そのまま腐る玉ではないはず。能動的に分析して実行してPDCAを回し、問題解決に挑み続ける感性や習性を生来的にも習慣的にも養ってきた人間のように私には見える。

だから彼はいつか「多様性」に辿り着き、弟さんへの愛や不満を原動力に多様性への理解を深め、最終的には弟さんが抱える課題を自分事のようにインストールするのではないかと予想している。何か月後何年後になるかはわからんが、そんなに時間はかからんはず。

兄弟だもの。

そうなった時、弟さんはようやく格闘家として開花するだろう。彼(璃紅さん)の活躍には兄ちゃん(瑠輝也さん)のサポートが欠かせない。今の兄ちゃんはまだ多様性の知識がないから感情的になってしまうこともあるだろう。マジョリティ方式で運用されている社会ではそれが当たり前だ。

でも、安保兄ちゃんが多様性を理解したら心の霧が晴れるようにすっきりと弟さんのすべてを許し、「全力でサポートしたるわ」とまで言うだろう。なんなら「理解できかった俺が悪かった。あん時はほんまごめん」くらい言うと思う。

こうして安保璃紅選手は、安保瑠輝也選手のサポートの下で格闘家としてのパフォーマンスにフルコミットし華々しい成果をあげ、「安保兄弟」という新しいブランドを築いていく。

さらに安保兄ちゃんは「理解されにくい人」への理解を啓発する福祉的な事業を立ち上げるためにクラファンする──まで読んだ。

「そんなハッピーエンドだったらいいな」という希望的観測はある。

ま、実際にどうなるかはさておき「弟の素行に悩まされる兄」の複雑な感情を久しぶりに想起し、思うことを記してみた次第。特に深い意味はない。寝るわおやすみ。


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