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時のエレベーター

今、この瞬間に僕以外にも75億の人間が存在していて、たしかに同じ時を生きている。その中の1人は昨日生まれた赤ん坊かもしれない。またある1人は明日には死んでしまうのかもしれない。また、75億のうち、僕が面識を持っている人はほんのわずかだ。75億のほとんどの人間を知らない。

僕は同時代のひとたちと生きる時間を共有することを、エレベーターのようだと思う。僕は1985年の階からエレベーターに乗り込んだ。そのときにはすでに50億人が同じエレベーターの中にいた。それから2019年の階に到着するまでにエレベーターに乗っている人は25億人も増えた。エレベーターの大きさは変わってないのに人の数は1.5倍になったから少し窮屈だ。

こどものころはエレベーターに乗っている人は誰なんだろうという興味に溢れていた。家族や近所のひと、学校の友達、それにテレビが伝えてくれるニュースや芸能に関わるひとたち。エレベーターで、知っている人たちが増えていった。

大人になるにつれて、エレベーターには新しい誰かが乗ってきて、そして降りて行く人もいることに明確に気付き、喜び、悲しんだ。近所に3歳くらいのこどもが遊んでいる。そうか、この子は2016年の階から乗り込んで来たんだ。一方、近しいひとが亡くなったり、それまで当たり前にテレビの中にいるものだと思っていた有名人が亡くなったりすると、エレベーターにぽっかり穴が開いたような気がする。エレベーターのその場所にはたしかにそのひとがずっといたし、それは当たり前のことだと思っていた。でも当たり前ではなく、必ずどこかの階で降りてゆくのだ。

街中で名も知らない大勢の人たちとすれ違う。ぼくもあなたのことは知らないし、あなたもぼくのことは知らない。でも、僕はたしかにこの瞬間に同じエレベーターに乗り合わせていることだけは知っている。

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